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第4話 アスとベルン

 朝起きると、蝶が寝台の上で静かに翅を休めていた。


 返って、来たんだ。

 アナイティスは、少し緊張しながら蝶の翅にそっと触れた。


 『俺の名はアス。特別、つらいことがあったわけじゃない。ただ、病を抱えていて、痛みがひどくて眠れない夜がある』


 『そんなとき君の声が聞こえて。少し、救われた』


 返って来た答えは、アナイティスの想像を超えるものだった。病気を抱えて、痛みのなか、眠れない夜を過ごす。それがどんなに苦しいことか。想像ができない。

 でも、自分の声が、彼にとって少しでも慰めになったなら……。こんな私でも、役に立てたのなら……少し嬉しい気がした。そう思って、声を返そうとしたが、言葉が出てこなかった。


 この人に、私が何を言える? 魔力も使えない、“翅なし”の私が。


 ◇◇◇


 天翅庁の廊下を歩きながら、アナイティスの心は、まだ朝のことを引きずっていた。

 アスは今頃どうしているだろう。昨日は少しは眠れたのだろうか。痛みはひどいのだろうか——


 ヴェルが肩の上で、もぞもぞと八本の足を動かした。

「わかってるわよ。仕事、仕事」


 地下への階段を降りて、管理室の扉を開ける。蝶たちがふわりと翅を広げた。


「おはよう、みんな——」


 アッシュルは、すでに執務席に腰を下ろして、書類を広げていた。いつも通りの漆黒の髪、いつも通りの完璧な横顔。いつも通りの、近寄りがたい雰囲気。


「何を見ている」


 低い声が飛んできた。アッシュルは書類から目を上げてもいない。


「さっさと仕事をしろ」

「は、はいっ」


 怖い。今日も怖い。いつも通り怖い。声に温度が無さ過ぎでしょ。この人。


 アナイティスは記録簿に向き直った。

 しばらく、翅ペンの音だけが室内に響いた。


「蝶が声を記憶する仕組みは、解明されているか」

 アッシュルの声が、突然落ちた。


 この人、なんで、いつもガラン翅師がいないときに限って聞いてくるの……? それに、蝶の研究って、一体何を知りたいわけ……? 疑問に思いながらも、アナイティスはできるだけ淡々と答えた。


「いいえ。どの研究者も手をつけられていない部分です。蝶が声を受け取る瞬間、翅の紋様が微妙に変化するので、声は紋様に刻まれるのではと言う者もおります——」


「変化の記録はあるか」

「私が手書きで書いたものなら」

「見せろ」


 アナイティスは記録簿の束を持ってアッシュルの執務席へ向かった。アッシュルが受け取って、ページをめくる。その目が、さっきよりずっと真剣だった。一言も発さず、細かい記録を追っている。眉間にうっすらと皺が寄って、でもそれが怖さではなく、集中しているせいだとわかる。


 やがて、低く静かな声が落ちた。

「よく記録できている」


「えっ」

「紋様の形と色の変化が精確に描けている。誰の指示だ」


 アッシュルは記録簿から目を逸らさない。顔にはなんの表情も浮かんでいない。しかし、彼のその言葉を聞いて、アナイティスは自分の口元が緩むのが分かった。


 “翅なし”、天翅庁の役立たずと、魔法師の正規職員からずっと陰口を叩かれてきた。こんな自分を雇ってくれたガラン翅師の役に立ちたいと、できることを探してやってきた結果が、今の言葉で報われた気がした。


「私が勝手に……誰からも指示は受けておりませんが、研究の参考になるかもと思ったので……」


 アナイティスがそう答えると、アッシュルは口元に手をやった。その表情は、先ほどよりも、どこか柔らかく見えた。


 ◇◇◇


 その夜。

 アナイティスは窓辺に座って、蝶を手のひらに乗せた。“廃棄処分”のはずの蝶は、今日も元気に翅を広げている。


「すっかり元気になっちゃったわね。まったく、心配させて」


 蝶がくるりと一回転した。得意げに見えた。


「……やっぱり、あなたにお願いしようかしら」


 アナイティスは、昼間のアッシュルとの一件を思い出していた。アッシュル様の言葉、嬉しかったな。本人はそんなつもりなかったんだろうけど。誰かの何気ない一言が、心を明るくすることがある。そう思うと、アスに声を届けたくなった。


 アナイティスはそっと口を開いた。なるべく明るい声を出そうと努めて。


「アス、こんばんは。おはよう、かな? 私は……ベルンといいます」


 ベルン。母方の祖母の名前だ。おばあちゃん、ごめん、ちょっとお借りします。アナイティスは心の中で手を合わせた。


「アスは病気だと言っていましたが、お医者様には診ていただいていますか? お薬はありますか? 痛みがひどいときは、どうしているんでしょう。……余計なことかもしれないけれど、気になってしまって」


 言葉が、思ったより出てきた。


「何か、力になれることがあれば嬉しいです。私にできることなんて、何もないかもしれないけれど。でも——あなたの痛みが少しでも楽になったらいいなと、祈っています」


 蝶がふわりと浮き上がった。


「気をつけてね」


 窓の外へ消えていく光を見送りながら、アナイティスは自分の手のひらを見た。


 力になれることがあれば、なんて言ったけど。魔力のない私じゃ、どうしようもないんだけど。でも、気持ちが伝わると、良いな。


 ヴェルが膝の上で、じっとこちらを見ていた。金色の目が、いつもより深く細まっている。


「……なに?」


 ヴェルは答えなかった。ただ、そっとアナイティスの手に脚を乗せた。

 

「……ありがとう、ヴェル」


 ◇◇◇


 その夜以来、アスと()()()の間を、蝶が行き来するようになった。


 アスの返事は、最初、簡潔だった。

『医者には診せている。ただ、根本的な治療法はないと言われた。生まれつきのものだから』


 アナイティスはその言葉を何度も聞いた。この人は生まれてからずっと、痛みの中にいたんだ。どんなに辛く、苦しかっただろう。


『眠れないとき、アスはどうしているの?』


『一人で朝まで痛みが治まるのを待っている。陽の光が無くなると痛みが増す』


『つらくないの? 頼れる人は?』


『痛みには、もう慣れた』


 その言葉を聞いて、アナイティスは、少しでも楽しい話題を、と思った。


『アスには今、したいことはありますか?』


『痛みなく、朝までぐっすり眠りたい。それだけだ。ベルン、君は? 何がしたい? 君のことを、もっと教えてほしい』


 アナイティスは蝶を手のひらに乗せたまま、少し迷った。


 私のこと、か。本当のことを言えば、天翅庁の人間だとわかってしまうかもしれない。“廃棄処分”のはずの蝶を使っていることも。


『私は……町の郵便局で働いています。手紙を受け取ったときの皆さんの喜ぶ顔を見るのが、何よりの楽しみで』


 嘘だ。でも——全部が嘘でもなかった。


 祖母のベルンは郵便配達人として働いていた。伝令蝶は希少なため、王宮や省庁の儀礼式典などでしか使われない。街では今も手紙が主流だ。早くに両親を亡くし、祖母に育てられたアナイティスは、配達に連れて行ってもらうこともあった。手紙を届けたとき、受け取った人の顔が変わる瞬間がある。驚いて、それから柔らかくなる。アナイティスは、その瞬間が本当に好きだった。だから、蝶の管理という仕事に就いたのかもしれない。


『子どもの頃から、人を喜ばせるような仕事がしたかったから』


 本心だった。だからこそ、大きな嘘をついていることに心が痛んだ。アナイティスは、胸の痛みを無視して、蝶を飛ばした。


 それからは、なるべく本当のことを伝えるようにした。祖母に育てられたこと。小さな職場だけれど、優しい上司に支えられて、やりがいを持って働いていること。夜、窓辺で本を読むのが大事な時間になっていること。


 ある日、お互いの好きなものの話になった。


『私は、甘いものが大好きで、蜂蜜をたっぷりかけたトーストを朝に食べるのが、なによりの楽しみです。アスの好きなものは、なんですか?』


 返事は、次の朝だった。


『好きなもの、か。あまり考えたことがなかった。でも、静かなところは好きだな。誰もいない夜明け前、窓の外が少しずつ白んでいく、あの時間。痛みが少し引いていくような気がする』


 少しの間があった。


『それから——最近は、君の蝶を待っている時間が好きだ』


『君に、会いたい。声だけじゃなく、君に会って話がしてみたい』


 アナイティスは蝶を胸に抱いたまま、しばらく動けなかった。その声を、三回聞いた。


 顔が熱くなった。窓の外はまだ薄暗い朝だというのに。


 黒蜘蛛のヴェルが金色の目を細めてこちらを見ている。


「何よ。見ないでよ」


 アナイティスは、口元を手で覆った。

「……わかってるわよ。アスは痛みで眠れないから、私の蝶が暇つぶしになってるだけだって」


 そして、蝶をそっと持ち上げて、口を開いた。


『私も、あなたに会いたい』


『あなたの蝶が来るのが、楽しみ』


 そう言おうとして、でも、言葉が出なかった。私は、アスに嘘をついている。ベルンなんて人は、いない。始まりも、何もかも。これは嘘で始まった関係なのだから。アナイティスの胸が、ずきりと痛んだ。

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