第3話 あなたは、だあれ?
その朝、アナイティスは出勤してすぐに気づいた。
棚の隅、定位置に戻っているあの蝶。先日逃げ出して帰ってきたあの子だ。それが今日は翅を閉じたまま、ぐったりと棚の端にもたれている。光もほとんどない。
「……どうしたの」
そっと指を差し伸べると、蝶はかすかに翅を動かしたが、乗ってこなかった。アナイティスは眉を寄せた。昨日は元気に飛んでいたのに。
「ガラン翅師、この子、最近少し様子がおかしくて——」
記録簿を広げていたガランが立ち上がり、蝶を覗き込んだ。丸眼鏡の奥の碧の瞳がわずかに細くなる。
「……そうですね」
ガランはしばらく蝶を観察して、それから静かに言った。
「この子は、もう寿命かもしれません」
アナイティスは息を呑んだ。
「寿命……」
「始祖蝶がどのくらい生きるのか、正確にはわかっていません。ただ弱り方が、これまで見てきた蝶と同じです」
ガランが手を伸ばして、蝶をそっと指先に乗せた。翅の光が、かすかに揺れる。
「……廃棄処分の手続きを取らなければいけませんね」
その言葉が、アナイティスの胸にずしりと落ちた。廃棄処分。《《耐用年数》》を迎えた蝶は、宛先を間違えたり、途中でたどり着かず消えてしまうことがある。そのため規則上、記録に残したあと処分する。——それが天翅庁の定めだ。わかっている。でも。
「あの」
気づいたら、声が出ていた。
「私が、家で看取っても良いですか」
ガランが顔を上げた。綺麗な灰色の髪が揺れる。アナイティスは続けた。
「規則に反するのはわかっています。でも、この子……私になついてくれていたから。最期くらい、傍にいてあげたくて」
ガランはしばらく、アナイティスの顔を見つめた。
それから、小さく笑った。
「……わかりました」
「え」
「ただし、記録上は廃棄処分にしておきますよ」
アナイティスは目を丸くした。ガランが続ける。
「あなたがこの蝶を持ち出したことは、誰も知りません。アッシュル首席も、ちょうど、今日はいらっしゃいませんし」
最後の一言を、ガランはことさらゆっくりと言った。
アナイティスは思わず目が潤んだ。
「……ガラン翅師」
「まだまだ泣き虫は治りませんね、アナイティス」
ガランは、アナイティスの頭をひと撫ですると、記録簿に向き直り、何かを書き始めた。ヴェルが肩の上で、珍しく満足げに脚をひとつ持ち上げた。
アナイティスは袖で目元を拭って、蝶をそっと両手で包んだ。
「一緒に帰ろうね」
蝶の翅が、かすかに震えた。
◇◇◇
家に帰ると、アナイティスは蝶を窓辺の一番明るい場所に置いた。柔らかな夕日が差し込んで、蝶の翅をうっすらと照らしている。光はほとんどない。翅もほとんど動かない。
「ここが好き? 私はここで本を読むの。一番落ち着く場所なのよ」
独り言だ。でも、話しかけずにはいられなかった。
黒蜘蛛のヴェルが窓枠に登って、蝶の傍に陣取った。金色の目で、じっと蝶を見守っている。
「ヴェル、食べないでよ」
ヴェルが八本の脚を折り畳んだ。わかってる、という意味だと思った。
アナイティスは蝶の傍に椅子を引いて、膝を抱えて座った。
「ねえ、このあいだ、あなたが逃げ出したでしょ。でも、元気に帰ってきてくれて本当に嬉しかったのよ。だから……もう少しだけ、頑張れないかしら」
蝶は動かなかった。
「頑張れって言うのは無責任よね。でも、私、あなたに、まだいてほしいの」
窓の外で、鳥が一羽鳴いた。
アナイティスはそっと指を伸ばして、蝶の翅に触れた。冷たかった。でも、確かにまだ、かすかな光がある。
「……元気になって」
その瞬間だった。
蝶の翅が、ぴくりと動いた。
アナイティスは息を止めた。気のせいか。でも——翅の光が、じわりと広がっていく。少しずつ、少しずつ。まるで消えかけた命に、誰かが息吹を吹き込んだみたいに。
「……え」
蝶がゆっくりと翅を開いた。光が戻っていく。淡く、青白く、いつもの光が。
「……元気に、なっちゃった」
呆然としながら、アナイティスは自分の指先を見た。何もしていない。ただ触れて、元気になってと思っただけだ。ヴェルが金色の目を細めて、こちらをじっと見ている。
「……なんで、そんな顔するの」
ヴェルは答えなかった。
「私、何かした?」
ヴェルはやはり答えなかった。ただ、脚をひとつだけ持ち上げた。
「……まあ、元気になったんだから、いいわよね」
アナイティスは気を取り直して、蝶を両手で包んだ。翅の光が、手のひらを温めるみたいに広がっている。嬉しくて、でも少し泣きそうだった。
『ありがとう。君がどこの誰かはわからないが——少し心が楽になった』
アナイティスは先日、蝶から聞こえた声を思い出した。飾りがなくて、素っ気ない。でも、まっすぐな声。あの人は、いま元気にしているかしら。
蝶を顔の前まで持ち上げた。翅がゆっくりと開閉している。
「廃棄済みの蝶、だもの」
誰に言い訳しているのかわからないまま、アナイティスはそっと口を開いた。
「あの、先日は声が届いてしまってごめんなさい。でも——返事をくれてありがとうございました。あなたは、だあれ? 何か、つらいことがあったの?」
蝶がふわりと浮き上がった。
「あっ、ちょっと——!」
止める間もなく、蝶は窓から夜の空へ消えた。
アナイティスはしばらく、開いた口を閉じられなかった。きっと、昨日のあの人のもとに行ったんだ。どうしよう。あなたは誰?なんて、なんだか、馬鹿みたいなことを聞いちゃった。
ヴェルが窓枠で、小刻みに揺れていた。笑っているみたいだった。
「……笑わないでってば」
夜風が部屋に流れ込んで、アナイティスの頬を冷やした。
その夜、アナイティスはなかなか眠れなかった。目を閉じると、あの声が聞こえた気がした。低くて、静かな声。
やがて意識が白に包まれ、次に目を覚ましたときには――
朝の光の中に、蝶がいた。




