第2話 アッシュル首席翅師
『きっと、また会えるわ』
『ああ、いつまでも君を待っている』
優しく見つめる、金の眼。夜の闇が溶けたような黒髪。
春の嵐のように、
無数の蝶が飛んでいた。
※※※
ゆ、夢かぁ。
目を覚ましたアナイティスは、天井を見つめながらぼんやりと思った。さっきまでなんだか懐かしい夢を見ていた気がするけど……思い出せない。
それより昨日の蝶だ。どこに行ってしまったんだろう。ガラン翅師にどう説明しよう。それに——少し弱っていたから、もしかして、今頃はもう儚くなってしまっているかもしれない。
「……どうしよう」
弱弱しく呟いた瞬間、部屋の空気が動いた。窓の外から、ひらりと何かが舞い込んできた。淡く青白い光。昨日逃げ出した、あの蝶だ。アナイティスの手のひらの上にふわりと降り立ち、得意げに翅をひとつはためかせた。
「……あなた。戻ってきたの?……なんで?」
思わず、声が震えた。安堵と、それから——なぜだか、少し胸が温かくなった。
「心配したんだから。どこに行ってたのよ」
蝶が翅をゆっくりと開閉した。何かを言いたげな動きだ。アナイティスはそっと指先で翅に触れた。
瞬間、声が立ち上がった。
『ありがとう。君がどこの誰かはわからないが——少し心が楽になった』
低く、静かな声だった。短い、ただそれだけの言葉。でも飾りがなくて、嘘がなかった。
ん? ありがとう? って、なんだ……?
アナイティスは思わず、昨晩のことを思い出す。もしかして……私が蝶に話しかけた言葉が、誰かに届いたの? これは、その返事……?
アナイティスはしばらく、その声の余韻の中にいた。
蝶が、くるりと一回転した。
「まったく、勝手に飛んでいって。でも——ありがとう」
誰に言っているのかわからない言葉を呟いて、アナイティスは支度を始めた。今はとにかく、この蝶をガラン翅師に気づかれないように、棚に戻さなくてはいけない。
ヴェルが枕元で脚をもぞもぞさせている。
「見てないで、ヴェル。早く行かないと遅刻するんだから」
◇◇◇
出勤すると、ガラン翅師が廊下で待ち構えていた。普段は穏やかな碧の眼が、今日は明らかに焦っている。
「アナイティス。大変です」
「おはようございます、ガラン翅師。あの、実は昨日のことなら——」
「昨日の残業申請が未提出だった件は、後から出してもらえば問題ありません。それどころではないんです。首席翅師が、ここで研究をされるそうですよ」
アナイティスは固まった。
「……は?」
「始祖蝶の生態研究を、アッシュル首席翅師ご自身で行われるとのことです。週に何度か、ここで研究を行うと。これから、執務机が運ばれてきます」
アナイティスは管理室の扉を見た。それから天井を見た。それから小声で呟いた。
「あのアッシュル首席翅師が、ここに……?」
「まあ、首席直々に研究していただけるのは、光栄な——」
「絶望だわ」
「アナイティス」
「だって、あの人、私を見て“翅なし”って言ったんですよ?初対面で!挨拶も無しにいきなり!」
「アナイティス」
「冷酷無比、なんて言われてますけど、それ以上です。きっと人の心が無い——」
「アナイティス」
ガランの声が、一段低くなった。アナイティスははっとして口を閉じた。ガランの視線が、アナイティスの後ろに向いていた。
……嫌な予感がする。
振り返ると、扉の前にアッシュルが立っていた。いつからいたのか。漆黒の髪、黄金の瞳。昨日と同じ完璧な顔が、無表情のままこちらを見ている。
「天翅庁も、程度の低い者を雇っているものだ」
静かな声だった。
室内の空気が、すうっと冷えた気がした。
……言い返したい。でも、言い返せない。私が先に悪口を……言っちゃったんだから。
「……申し訳ありませんでした」
アナイティスは深々と頭を下げた。
ヴェルが肩の上で八本の脚を全部折り畳んだ。
今度は「最悪だ」という意味だと思った。
◇◇◇
気まずい沈黙の中、運び込まれてきた机が管理室の隅に設置された。アッシュルはさっさと椅子に腰を下ろし、書類を広げた。しばらく、翅ペンの音だけが室内に響く。
……仕事、しにくい。ものすごく、仕事しにくい。いくらなんでも「人の心が無い」なんて失礼だったよね。でも、今さら謝るのも変だし。どうしよう。
ガランが会議に出てしまうと、アナイティスはできるだけ気配を消して、記録簿を開いた。ヴェルも肩の上で縮こまっている。珍しい。
「アナイティス、と言ったな」
突然、声がした。
アッシュルが書類から目を上げずに続ける。
「始祖蝶の個体の識別はどのように行っている」
アナイティスは、背筋を伸ばした。
「も、紋様が一匹一匹違います。ごく、わずかですが」
そこから、質問は次々に飛んできた。
「始祖蝶と、複製した伝令蝶の紋様は、同じか」
「いえ、違います。……なぜか、同じ紋様の蝶は二羽とおりません」
「声を乗せた蝶は、なぜ指定した相手のもとへ届くのか」
「仕組みは、解明されていません。声を込めた者の魔力情報を、蝶が感じとって、その人が想っている人のもとへ向かっている、と言う者もおります」
翅ペンの音が止まった。アッシュルのほうを見ると、手を口元にあてて何か考えごとをしているようだった。
「蝶が、誤った宛先に届くことはあるか」
思いがけない質問に、喉がきゅっと狭まった。
「寿命を迎えた蝶や、弱った蝶であれば、ごくまれにそのようなこともあると聞いています」
なんで、こんなこと聞いてくるんだろう。それも、ただの世話係の私に。アナイティスには、自分の心臓の音がやけに大きく聞こえた。
「弱った蝶には、どのような手当てをする」
「記録上は、安静にしておくことが最善とされています。ただ——」
「ただ?」
「声をかけると、なぜか早く元気になる気がします」
言ってしまったそばから、アナイティスは後悔した。声をかけたら元気になる気がする、だなんて。そんな子どもじみた言葉、信じてもらえるわけない。蝶は魔法で作られた無生物だ。何かを感じる心なんてあるはずがないんだから。
しかし、アナイティスの内心に反して、アッシュルはわずかに翅ペンを持つ手を止めただけで何も言わなかった。
意外だ。馬鹿にされると思ったのに。
そう思った瞬間。
「昨晩、誰か始祖蝶を使ったか」
アナイティスの心臓が、ひとつ跳ねた。
なぜ、そんなことを聞いてくるの。
「いいえ」
アナイティスは真っすぐ答えた。
「昨晩は誰も使っておりません」
「……そうか」
アッシュルはそれだけ言って、また書類に目を落とした。その横顔が——ほんの一瞬だけ、何かを惜しむように見えた。
やばい。もしかして、昨日、始祖蝶が逃げたこと、知ってる?
◇◇◇
帰り道、アナイティスは朝の蝶のことを考えていた。
『ありがとう。君がどこの誰かはわからないが——少し心が楽になった』
寂しそうなあの声に、返事をしたかった。何か言葉を返したかった。でも——あの、アッシュル様が蝶のことを気にしている。下手に動いたら、バレるかもしれない。
ヴェルが肩の上で、じっとこちらを見ていた。
「わかってるわよ。返事はしない。あの冷酷無比男に目をつけられたら大変だもの」
ヴェルは何も言わなかった。ただ、脚をひとつだけ持ち上げた。
それがどういう意味なのか、アナイティスには分からなかった。




