第1話 アナイティスの蝶
「俺と結婚してほしい」
艶やかな声が、耳元で響いた。
「お前無しでは生きていけない。お前の心も、体も、全てが欲しい」
目の前には、漆黒の髪と切れ長の瞳。天翅庁で最も恐れられる男が、真っすぐにこちらを見ている。
少し前まで、この人のことが大嫌いだったのに。なぜ——
◇◇◇
それは、ある朝のことから始まった。
天翅庁の地下一階、伝令蝶管理室。重い扉を開けた瞬間、空気が変わった。
ひんやりとした石造りの室内に、淡い光が満ちている。棚いっぱいに並んだ伝令蝶たちが、アナイティスの気配を感じてふわりと翅を広げた。
「おはよう、みんな」
蝶たちが一斉に翅をはためかせた。光の粒が室内に散って、まるで星が降っているみたいだ。アナイティスは思わず笑顔になった。
伝令蝶は古の魔女が作り出したとされる、魔法の蝶だ。使う者の声を吹き込み、遠くへと届けることができる。なぜ動くのか、どんな原理で声を届けるのか、誰も解明できていない。今ある伝令蝶はすべて、始祖蝶とよばれる蝶たちを魔法で複製して使っているものだ。しかし、複製した蝶は何度か使うと壊れてしまう。今や、どんな金銀財宝よりも貴重となった数十羽の始祖蝶を管理するのが、魔力のないアナイティスにできる唯一の仕事だった。
肩の上でヴェルが、もぞもぞと動いた。八つの金の目をきゅるきゅると動かして蝶たちを眺めている。
「ヴェル、食べちゃダメよ」
ヴェルが、脚をひとつ持ち上げた。同意、だと思いたい。
ヴェルは、いつの間にか管理室に住み着いていた小さな黒い蜘蛛だ。追い出しても追い出しても、なぜか部屋にいて、言葉を理解しているかのような動きをするので愛着がわいてしまい、アナイティスはこの蜘蛛に向かって独り言をつぶやくのが癖になってしまっていた。もっとも――用務員などからは、たまに害虫と間違えられて処理されそうになっているが。
「アナイティス、大変です」
扉が開き、長身の男性が血相を変えて飛び込んできた。ガラン翅師だ。天翅庁でも指折りの実力を持つ五枚翅の魔法師でありながら、なぜかずっと、この地下室で蝶の研究を続けている変わり者だ。アナイティスの唯一の上司でもある。
「どうしたんですか、ガラン翅師」
「今日、新しい首席翅師が着任されるのは知っていますね?」
「ええ。知っています。ケートス首席翅師が高齢のため退かれたからですよね」
「それが、新しい首席翅師は、あのアッシュル様なんだそうです」
アッシュル=ヴェナパル=ナパーム翅師。
その名は、天翅庁の誰もが知っていた。最年少の二十三歳にして八枚翅に上り詰めた天才。先の大戦では、その強大な魔力で敵国を圧倒した英雄。しかし、その実は冷酷無比で、気に入らない部下や上司、王族でさえ、一睨みで黙らせるという。地下で過ごしているアナイティスからすると、文字通り雲の上の存在だ。
「……それは、また」
面倒な人が来ちゃいましたね……という一言をアナイティスは呑み込んだ。
「これから、すべての部署に挨拶に来るそうです。もちろんこの地下にも。あの方は極度の女性嫌いという噂です。あなたを見たら」
「大丈夫ですよ。いつも通り、目立たないようにしておきますから」
ヴェルが肩の上で八本の脚を全部折り畳んだ。面倒くさい、という意味だと思った。
「わかってるわよ、私も同じ気持ち」と小声で返した。
◇◇◇
午前十時。
扉が開き、見知った上役が何人か入ってきた。
その中に、際立つ、すらりとした体躯。次に目に入ったのは、その顔だ。漆黒の髪が額にかかり、切れ長の瞳は黄金色をしている。彫刻のように整った鼻梁、薄く引き結ばれた唇。絵画の中から抜け出してきたような、という表現があるが、アナイティスは今初めてその意味を理解した。
ただし、その完璧な顔には感情というものが欠片も見当たらなかった。常に何かを品定めするような、静かな冷たさがある。
……これは確かに、怖い。
「始祖蝶の管理を、こんなところで?」
声まで整っていた。低く、よく通る声。しかし温度がない。
「蝶は暗く静かな空間を好みます。ゆえに少人数で飼育管理を行っております」
ガランが静かに説明する横で、アナイティスは静かに頭を下げた。蝶たちはシンと静まり返っている。いつもならアナイティスが近づくだけで翅を広げるのに、今日は一匹も動かなかった。
蝶まで緊張してるじゃない……。
アッシュルの視線が室内をゆっくりと流れた。棚の蝶たち、記録簿、机——そしてアナイティスの上で、止まった。
「……おまえは」
「アナイティスと申します。蝶の世話係を務めております」
「“翅なし”、か」
断定だった。蔑みでも同情でもなく、ただの確認。それがかえって、じわりと胸に刺さった。
「……はい」
アッシュルはそれ以上何も言わず、視線を外した。ガランへいくつか事務的な質問をして、踵を返す。扉が閉まった。
ガランが盛大に息を吐いた。
「はあ……終わった……」
アナイティスは黙って記録簿を開いた。ヴェルが扉の方をじっと見ている。その金色の目が、珍しく真剣だった。
冷たい人。
どうせ、魔力の無い私のことなんて、そこらへんの石ころぐらいにしか思ってないんだろうな。
そう思いながら——なぜか、あの切れ長の瞳が頭から消えなかった。
◇◇◇
この日の業務を終えたあと、最後に棚を一通り確認していると、隅の方で一匹だけ、翅を閉じたままの蝶がいた。
「あら、どうしたの」
そっと手を伸ばすと、蝶はぐったりと指先に乗ってきた。翅の光もいつもより弱い。アナイティスは椅子を引いて腰を下ろし、蝶を両手で包んだ。
「具合が悪いの?」
独り言のつもりだった。蝶に向かって話しかけるのは、いつもの癖だ。ここで働き始めて2年になる。伝令蝶は魔法による生成物で、魂は無いとされている。だが、声をかければ、蝶が不思議と喜んでいる気がしたし、微笑めば、微笑み返してくれているような気すらしていた。アナイティスにとっては、一匹一匹が、大事な子たちだった。
「ごめんなさい。私には何もできなくて。でも、あなたが元気になるよう、精一杯祈っているわ」
蝶の翅が、かすかに動いた。
「ありがとう。あなたはいつも、私たちのために一生懸命働いてくれているもの。たまには休んで。無理をしないでね」
気づくと、蝶の光が少しだけ強くなっていた。アナイティスは首を傾げた。
「あら、元気になってきた?よかった——」
次の瞬間、蝶がぱっと翅を広げた。
「え、ちょっと——!」
指先から飛び立った蝶は、アナイティスの手をするりと抜けて、小窓の隙間から夜の空へ消えた。
「……嘘、でしょ」
ヴェルが机の端から一部始終を眺めていた。その金色の目が、何かを言いたげに細まっている。
「なによ、その顔。わかってるわよ。伝令蝶がいなくなったなんて、始末書じゃすまないわ……」
ガラン翅師は優しいが、規律には厳しい人だ。貴重な始祖蝶を失ったと知れば、免職処分にされてもおかしくはない。そうしたら、また、あのつらい職探しの日々に元通りだわ……
ヴェルは答えなかった。ただ、静かに脚をひとつ動かした。
「わかったわよ。ガラン翅師には明日、報告するから」
アナイティスは憂鬱な気持ちで帰り支度をした。
——その蝶が運命をどこへ運んでゆくか、彼女はまだ知らない。
読んでいただきありがとうございます。
すれ違い&両片想いの物語です。
全20話。完結済のものを順次公開してゆきます。




