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第10話 逃がさない

 あの泣き顔が、まだ頭から離れなかった。


 夜の私室で、椅子に深くもたれたまま、アッシュルは燭台の火を見つめていた。書類は広げたままだ。しかし翅ペンは、一時間前から動いていない。


 自分が好きなのは、ベルンだ。柔らかな甘い声。優しく心配する口調。あの声を、もう一度聞きたかった。なのに、目を閉じるとアナイティスの泣き顔が浮かんでくる。あんな顔を、させるつもりはなかった。泣かせてしまった。


 一体、自分はどうしてしまったというのか。情けない。

 思い人がいながら、別の女性に心を乱されている。最低な人間だ。


 自己嫌悪でどうしようもなくなっていたそのとき、窓が揺れた。蝶だった。淡く青白い光が、窓枠にふわりと止まった。アッシュルは椅子から立ち上がった。心臓の鼓動が速くなったのが分かった。


 ベルンだ。


 心が躍った。そして同時に、怖れがやってきた。「会いたい」と言ってしまったあのときから、長く返事がなかった。あの言葉が、彼女を怖がらせたのかもしれない。返事を聞くのが——怖かった。


 アッシュルはゆっくりと近づいた。蝶が翅をひとつ動かす。こわごわと、翅に触れると、懐かしい声が、立ち上がった。


『アス。返事が遅くなってごめんなさい。……会いたいって言ってくれて、嬉しかった。私も、同じ気持ちだったから』


 アッシュルの胸が大きく高鳴った。

 同じ気持ち。

 ベルンも——俺を。


 声は、続いた。


『私、あなたと話す時間が、好き。あなたの声が、好き。……でも、会うことはできない。それから、もうこれ以上、あなたと話すこともできない』


 胸の高鳴りが引き、冷や汗がじわり、と背中から這い上がってきた。


『本当に、ごめんなさい。今までありがとう』


 声が、途切れた。


 アッシュルは動けなかった。蝶が翅を閉じた。室内が、静かになった。燭台の火だけが、ゆらゆらと揺れている。


 会うことはできない。もうこれ以上、話すこともできない、だと?


 「好きだ」と、「同じ気持ちだ」と言っておきながら、なぜ会えない。なぜ、拒絶する。お前に「会えない」と言わせているものは何だ。何が、俺とお前の間に邪魔しているというんだ。


 心の奥底の深いところから、制御できないどす黒い思いが、湧き上がっていた。


 アッシュルは、蝶を手のひらに包むと箱に入れ、上着を掴んだ。


 ◇◇◇


 ダグラエンの扉を叩いたのは、夜も更けた頃だった。

「……また来たのか」


 扉を開けたダグラエンは、今度は起きていた。しかし顔を見て、すぐに表情が変わった。

「入れ」


 部屋に入ると、ダグラエンが酒を二つ用意した。アッシュルは椅子に座って、箱を開き、机に置いた。


「蝶が来た」

「ほう」


 ダグラエンが蝶を覗き込もうとした。

「聞かせてくれ」


「……嫌だ」

 ダグラエンの動きが止まった。

「は?」


「ベルンの声を、俺以外に聞かせたくない」


 沈黙が落ちた。ダグラエンはしばらくアッシュルを見てから、額に手を当てた。


「……本気で言ってるのか」

「本気だ」

「お前、自分が何を言っているかわかってるか」

「わかっている」

「わかってない」


 ダグラエンが、大きな声を出した。

「その蝶を調べないと、手がかりが掴めないんだぞ。探すんじゃなかったのか」


 アッシュルは少し黙った。

 それから、蝶をダグラエンの方へ押した。


「……聞け。ただし、聞いたらすぐに忘れろ」

「んな無茶な」

「うるさい」


 ダグラエンが蝶の翅に触れた。しばらく、目を閉じて聞いていた。やがて翅から手を離して、椅子に深くもたれた。


「……そうか。別れを告げられたってわけか」


 ダグラエンは蝶をじっと見つめた。それから、眉をひそめた。指先で翅の端を、そっと触れる。また離す。また触れる。


「強い秘匿魔法がかかってるな。俺の探知魔法では歯が立たない。送り手の場所も、素性も、何も読み取れない」


「知っている」

 アッシュルは静かに言った。

「この蝶は、通常の伝令蝶とも、始祖蝶とも違う。魔法陣での解析も効かない」


「だろうな」

 ダグラエンが頷いた。


「手がかりが、掴めそうだったが——」と言いかけて、アッシュルは黙った。

 胸にじん、と痛みが走った。アナイティス。泣いていた。俺が泣かせてしまった。俺のせいで。謝らなくてはいけないのに。


 沈黙を打ち破るように、ダグラエンが呟く。


「こいつ。蝶に吹き込まれた“声”自体にも、幻惑の魔法がかかっているな」


 アッシュルは顔を上げた。

「声に?」


「ああ。俺たちが聞いている声は本物だ。感情も、息遣いも、本物の声だ。しかし——声の主と実際に会っても、同じ声だと気づかれないようになっている」


 ダグラエンが静かに続けた。

「おそらく、声の主を特定されないための細工だろう」


 室内が、静かになった。アッシュルは動かなかった。


 声で、気づかれない。つまり——ベルンと会っていたとしても、気づかないということだ。すれ違っていても。話していても。あの声を聞いても、同じ人物だとは——


「並みの魔法師では使えない技だ。いや、俺やお前ですら難しいだろう」

 ダグラエンが静かに言った。ただ、確認するように。

「で、落ち込んでるところ、なんなんだが——」


 ダグラエンが、カラッとした笑顔を向けた。


「ベルンという女性は、王都の郵便局にはいない。全部当たったが、どこにも存在しない」


「仕事も、名前も、全部偽りか」

 アッシュルは杯を取って、酒を一口飲んだ。


「そういうことだ」


 なぜだ。

 ベルン。

 そこまでして、一体、何から隠れている。

 そんなに、俺と会いたくないというのか。


 アッシュルは再び酒を一口飲むと杯を置いた。燭台の火が、揺れた。


「で、どうする? アッシュル」

 ダグラエンが、意地悪そうな顔をしてアッシュルを見た。


「むろん、決まっている」


 そう言った顔には、表情が無かった。

 だが、ダグラエンには、アッシュルが至極、怒っているのが分かった。


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