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第11話 胸の痛み

「やっぱり腫れちゃってる……」


 洗面台の鏡を覗き込んで、アナイティスは小さく呻いた。目が、はっきりわかるくらい腫れている。昨夜、アスへの別れの言葉を吹き込んだあと——気づいたら夜通し泣いていた。泣くつもりなんてなかったのに。


 しょうがない。これで良かったんだから。

 自分に言い聞かせながら、冷たい水で顔を洗った。


 肩の上でヴェルが、すっと脚を一本持ち上げた。

「……いわんこっちゃない、って顔しないでよ」


 ヴェルは脚を下ろした。しかし金色の目は、まだこちらを見ていた。

「わかってるわよ。でも、泣いたらすっきりしたから。いいの」


 ヴェルはもう一度、脚を持ち上げた。

「だから! もう大丈夫だって言ってるでしょ!」


 ◇◇◇


 ガランが「今日は来なくていい」と言ってくれたが、蝶たちのことが気になって、結局、足は職場へと向いてしまった。体調は悪くない。むしろ昨夜、アスに声を吹き込んで、泣いて——不思議と、胸が軽かった。


 管理室の扉を開けると、蝶たちがふわりと翅を広げた。

「おはよう、みんな」


 光の粒が散る。アナイティスは思わず笑顔になった。


「アナイティスさん」

 振り返ると、見習いの子が書類を抱えて立っていた。

「アッシュル首席翅師が、来られてます」


 アナイティスは固まった。

 ……アッシュル様が? 今日は、管理室に来る日じゃないわよね?


 ◇◇◇


 管理室の扉の前に、アッシュルが立っていた。

 いつも通りの漆黒の髪、いつも通りの完璧な所作。しかしなぜか、いつもと少し違う気がした。何が違うのか、うまく言えないけれど。


「おはようございます」

 アナイティスは頭を下げた。


 アッシュルは少し間を置いた。それから、口を開いた。

「昨日のことだが」


 アナイティスは肩を震わせた。呼吸が荒くなる。


「……配慮が足りなかった。あのようなやり方は、間違っていた。申し訳ない」


 相変わらず言葉は短かく、飾り気もない。でも、心の底から後悔していると言う声だった。アナイティスは、深く息を吸った。


「いえ……私も、急に泣いたりして。子どもじみた振舞いでした」


「いや、お前に悪いところはない」

 アッシュルが静かに言った。


「それから」と、アッシュルは懐からハンカチを取り出した。

「返すのを忘れていた。すまない」


 あのときの、ハンカチだった。階段から落ちそうになって、とっさに庇ってもらった。なのに、お礼も言ってなかったんだった。


「こちらこそ。あのときは、ありがとうございました。私のほうこそ——」

 受け取ろうと一歩踏み出した瞬間、足が床に引っかかった。


「——っ」


 よろけた体が、前へ傾く。咄嗟に手を伸ばしたが、掴むものがない。

 

 こ、こける——


 気づいたらアッシュルの胸に、顔が埋まっていた。魔法衣のごわごわとした感触。実験薬と、かすかな整髪料の香り。硬い胸板。アナイティスは、アッシュルから感じる男性の気配に、思わず固まった。頬が熱い。きっと耳まで真っ赤だ。恥ずかしくて顔を上げられない。


「す、すみません……!」

「怪我はないか」

「な、ないです……」

「そうか」


 アッシュルは、ゆっくりとアナイティスを離した。一歩、後ろへ下がる。いつも通りの無表情だ。だが、頬に少しの紅がさしていた。


「……お前は、よく転ぶな」

 その声は短く、飾り気がないのに、温かみがあった。


 口調がなんだか、似てる。アナイティスは思わず、アスを思い出して温かい気持ちになったあと、すぐ落ち込んだ。もう、アスには会えないんだった。彼を守るために、自分から別れを告げたのだから。


「あの……アッシュル様、聞いても良いでしょうか。どうして急に私の魔力測定をしようとされたのですか」


 アッシュルは少しの沈黙の後、口を開いた。


「……俺には、大事な人がいる。その人のために、伝令蝶の研究を急ぐ必要があった。お前の管理している蝶は、状態が良いと知って、お前の魔力情報を調べれば——何かわかるかもしれないと思った」


 アナイティスは顔を上げた。

 大事な人。その言葉が、胸の中に、すとんと落ちた。


 ……ああ。そういうことだったんだ。冷酷で近寄りがたいと思っていた。でも——この人にも大切な人がいたんだ。それであんなに必死だったんだ。


 それがわかったとき、胸の奥が——なぜか、ずきり、とした。アナイティスは、それを不思議に思いながら、無理やり笑顔を造った。


「……そうだったんですね。伝令蝶の研究は、アッシュル様の大事な人のためだったんですね」


 アッシュルが、ぴたりと動きを止めた。


 アナイティスは、気づかず続ける。

「その方は——」


「……いい」

 アッシュルが、静かに遮った。

「この話は、もう終わりだ」


 そこで、言葉が途切れた。

「邪魔をした。仕事を続けろ」

 アッシュルは少し俯いて、それから扉の方へ向かった。


 扉が閉まったあとも、アナイティスは管理室の中で、しばらく立ち尽くしていた。


 ……今のは、なんだったんだろう。何が気に障ったのかしら。


 ヴェルが肩の上で、静かに揺れていた。

「なに、ヴェル」


 ヴェルは答えなかった。ただ、そっとアナイティスの髪に脚を当てた。

「……やめてよ、くすぐったい」


 その日の夜、アナイティスは窓辺に座って、星をながめながら思った。アスとはもう声を交わすことも、会うこともできない。それはわかっている。でも——なぜか、別の声がずっと頭の中に響いていた。


『大事な人がいる』


 ◇◇◇


 管理室から執務室に戻ったアッシュルは、椅子に深くもたれた。


『伝令蝶の研究は、アッシュル様の大事な人のためだったんですね』


 その言葉が、頭から離れなかった。大事な人がいると言った。それは本当のことだ。なのに——アナイティスにそう言われた瞬間、胸の奥で何かが軋んだ。


 こんなはずじゃない。俺にとって大事なのはベルンだ。しかし——頭の中でアナイティスの顔が、浮かぶ。


 抱き留めた瞬間。——腕の中に収まった重さが、思っていたより、ずっと軽かった。柔らかで、華奢だった。それから。……良い匂いがした。花のような、甘いような。ほんの一瞬のことだったのに、なぜかまだ残っている気がした。


 アッシュルは眉をひそめた。

 俺は一体、何を考えている。俺が大事に想っているのは、ベルンだ。あの柔らかい声を。あの真っすぐな言葉を。俺は愛しているはずだ。なのに——大事な人を探しながら、別の女の顔を思い出している。いいかげんにしろ。


 アッシュルは椅子から立ち上がった。気持ちを切り替えるように、窓の外を見る。 


 空に、満月が出ていた。丸く、白く、王都全体を静かに照らしている。雲一つない。風もない。魔力が、空気に満ちているのを感じた。


 今夜は、いい夜だ。魔法師にとって、満月の夜ほど適した夜はない。魔力の流れが安定して、精度が上がる。

 

 アッシュルは上着を羽織ると、蝶を手のひらに包んだ。手のひらの中で、翅がかすかに光った。

 

 ベルン。

 今夜こそ、お前を見つけてみせる。


 彼は扉を開けて、薄く光る夜へと踏み出した。

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