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第19話 アッシュルとアナイティス

 翌朝、アナイティスはいつも通り管理室に出勤した。

 蝶たちがふわりと翅を広げた。


「おはよう、みんな」

 光の粒が散る。アナイティスは笑顔になった。


 昨夜のことが、夢だったような気がした。でも夢ではない。頬に触れると、まだじんとする気がした。……本当に、あんなことがあったのか。


「ヴェル。ただの蜘蛛のふりはやめなさいよ」

 ヴェルが棚の上にいた。満足げに脚を持ち上げている。


「わかってるわよ。顔が赤いのは、自分でもわかってる」


 記録簿を開いて、気を取り直した。今日もやることはたくさんある。蝶の状態の確認、管理記録の更新——翅なしの、地下室の管理人の仕事だ。でも、この仕事がやっぱり好きだ。そう思った。


「何を考えている」

 突然、低い声が落ちてきた。


 アナイティスは飛び上がりそうになった。

 アッシュルが、執務席に座っていた。いつからいたのか。書類を広げたまま、こちらを見ていた。


「お、おはようございます」


 アッシュルが立ち上がって、アナイティスの前に来た。それから、無言でアナイティスの髪を撫でた。


「っ——な、なにを」

「そんなに可愛い顔で。誰のことを考えていた」


 顔が、近づく。息がかかる。


「し、仕事のことです!」

「本当か」

「本当です」


 アッシュルが、髪をひと房すくって、口づけた。


「少しは、俺のことも考えてくれ」

「……っ」


 アナイティスは俯いた。耳まで熱くなった。


 そのとき、どこかで人が倒れるような音がした。

 廊下にいた見習いの子だ。壁にもたれるように座っていた。


「あなた!大丈夫!?」

「……首席翅師が、甘すぎて…………」


「しっかりして!!」


 ◇◇◇


 午前中は、平和に過ぎた——はずだった。


 アナイティスは記録簿を更新して、蝶の状態を確認して、複製の手続きの準備をした。アッシュルは執務席で書類を広げていた。


 視線を感じる。ちらりと見ると、アッシュルと目が合った。


 アッシュルが、静かに微笑んだ。やわらかくて、穏やかで——あの冷酷無比と言われた首席翅師と、同一人物とは思えない笑顔だった。


 アナイティスは慌てて目を逸らした。顔が熱い。


 ぽてりと音がした。

 隣で記録を手伝っていた見習いの子が、床に倒れていた。


「え、大丈夫!?」

「……アッシュル様の……笑顔……」


「しっかりして!!」


 ◇◇◇


 昼すぎ、ガランが出張から戻ってきた。

 管理室に入ってきたガランは、アナイティスとアッシュルを交互に見て、丸眼鏡を押し上げながら静かに微笑んだ。


「アナイティス、元気そうですね」

「はい。おかげさまで」


 ガランはアナイティスの傍に来ると、記録簿を覗き込んで、「よく整理できていますね」と自然に、いつもの癖で——アナイティスの頭をぽんと撫でた。


「昨夜は怖かったでしょう。よく頑張りました」

「もう、子ども扱いしないでください」

「すみません。つい」


 ガランが苦笑いした。その瞬間だった。部屋の空気が、びりりと震えた。アッシュルの魔力の波動だ。


 アッシュルが、ガランを見ていた。黄金色の瞳が、静かに、しかし明らかに不穏な色をしていた。


「あ、あの!」

 アナイティスが慌てて立ち上がった。


「アッシュル様。ガラン翅師は——その、私の叔父なんです」

「……叔父、だと?」

「はい。血は繋がっていませんが、赤ちゃんの頃から知っていて。だから、その、頭を撫でるのは、家族だからで——」


「血が、繋がっていない」

 アッシュルが、静かに繰り返した。


 そこじゃない。強調したいのはそこじゃない。


「いや、だから。私の唯一の家族なんです」


 しばらく、沈黙が落ちた。

 アッシュルは、ガランを見た。


 ガランが、困ったように、しかし穏やかに笑った。

「……お騒がせして申し訳ありません、首席。長年の癖で、つい」

 

 アッシュルは、少し考えるようなしぐさをしていた。そのあと、口を開く。

「……そうか。アナイティスに結婚を申し込むときは、お前に言えばいいんだな」


「アッシュル様!?」

 アナイティスが立ち上がる。


 後ろで、ガタン!と派手な音がした。

 床掃除をしていた用務員が卒倒していた。


 「大丈夫!?」

 「……首席様が、結婚……」


 「しっかりして!!」


 ◇◇◇


 夕方、帰り支度をしているとアッシュルが立ち上がった。


「送っていく」

「え、でも、わざわざそんな——」


「送っていく」


 有無を言わせない動きだった。アナイティスは諦めた。天翅庁の廊下を並んで歩いていると、他の職員たちが、二人を見て目を丸くしていた。アッシュルが、自然な動作でアナイティスの腰に手を回した。


「っ——ちょっと、アッシュル様」

「なんだ」

「み、みんなが見てます」

「見ればいい。お前が俺のものだと分かる」


「でも……」

「これからは毎日送っていくから、すぐ慣れる」

「毎日!?」


 アッシュルが、真っすぐ前を向いたまま言った。

「お前と少しでも長くいたい。嫌か?」


 アナイティスは、返事ができなかった。

 寮の前まで来ると、アッシュルが立ち止まった。

 アナイティスも立ち止まって、くるりとアッシュルの方を向く。


「では、また明日——」

「待て」

「……はい」


 アッシュルが、アナイティスを見た。夕暮れの光が、漆黒の髪をうっすらと照らして嘘のように綺麗だった。アッシュルの手が、アナイティスの頬に触れた。硝子細工を扱うようにそっと。


「アナイティス」


 アナイティスの心臓が、大きく跳ねた。

「ここは、その——寮の前で、人が——」


「嫌か?」

 アッシュルの声が、少し低くなった。黄金色の瞳が、切なそうにアナイティスを見ていた。いつもの冷たい目ではなかった。どこか、傷ついたような——

「……俺のことが、嫌いになったか」


「嫌いじゃないです」

 言ってから、アナイティスは自分の正直さに驚いた。


 アッシュルが、とろけるような笑みを見せた。

「なら、良かった」


「っ——」


 ぐっと顔が近づいたと思ったら——

 唇が、重なった。


 やわらかくて、温かくて。

 でも昨夜の頬へのキスよりずっと、深かった。


 頭の中が、真っ白になってゆく。どのくらい経ったのか、わからない。やがて唇が離れたとき、アナイティスは、しばらく動けなかった。


 アッシュルは、「また、明日の朝」と、名残惜しそうに離れると、踵を返して去っていった。


 アナイティスは寮の前で、しばらく立ち尽くしていた。顔から湯気が出ている気がする。誰にも見られてなくて、良かった。


 しかし——アナイティスは、知らなかった。

 寮の窓から同僚たちが、二人を目撃していたことを。


 翌朝、天翅庁中に噂が広まっていたのは——言うまでもない。


ここまで読んでいただきありがとうございました!

次回、最終話です。

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