最終話 あなたとわたし
アナイティスとアッシュルが想いを打ち明け合ってから、十日が経った。
十日間で、アナイティスの生活は静かに、しかし確実に変わっていた。
毎日のように、管理室にアッシュルが来る。甘い言葉を囁かれ、腰を抱かれ、手を取られる。そして——夜はたいてい、アッシュルの屋敷にいる。
「アッシュル様、私、どうして今夜もここにいるんでしょう」
「俺の痛みを癒すためだ」
アナイティスは、アッシュルの部屋の長椅子に座りながら思った。これでは、ほとんど一緒に暮らしているようなものだ。
「こちらへ」
「は、はい」
アナイティスは、おずおずとアッシュルの隣にゆく。アッシュルが、アナイティスに手を伸ばした。顎をそっと持ち上げる。アッシュルは、痛みを取ると言う名目で、朝晩二度の口づけを求めてくるようになっていた。
「っ——今日のぶんは、先ほど終えたはずです」
「まだ、少し痛みがある」
「本当ですか?」
「本当だ」
「でも」と、アナイティスがアッシュルの手を掴んだ。
「癒し手の力は、口づけでなくても。手で触れるだけでも使えるはずです」
アッシュルが、全く悪びれない顔で言った。
「癒し手が魔力を吸い取るには、粘膜同士の接触が最も効率が良い」
「それは——」
アナイティスの抗議の声は、唇でふさがれた。
◇◇◇
ある朝、ダグラエンが屋敷に顔を出した。
用件を済ませ、帰ろうかというとき、アナイティスの耳元を見た。
「その耳飾り、ひょっとして、アッシュルからか?」
「え? はい。先日いただいて——」
ダグラエンが、耳飾りをまじまじと見た。それから、アッシュルを見た。
「……お前、これ。場所もわかるし、男も弾く仕様か」
「そうだ」
あまりに事も無げなアッシュルの様子を見て、ダグラエンは口元を歪ませた。
「……えげつな」
それから、今度はアナイティスをしげしげと眺めた。
「……全身からアッシュルの気配がするな」
「えっ」
「魔力を、かなり吸ってるだろ」
アナイティスは、恥ずかしさのあまり顔をおさえた。
「これなら、よほどの馬鹿でもない限り、手は出さん」
ダグラエンがアナイティスを見た。
「ま。逃げたくなったら、いつでも言ってくれ」
アッシュルが殺気立った。部屋が、びりびりと鳴る。
「さっさと帰れ」
「はいはい。邪魔者は帰りますよ」
ダグラエンは、苦笑いしながら去っていった。
◇◇◇
管理室での蝶の研究も、順調に進んでいた。
アナイティスが蝶に触れると、弱った蝶が回復する。それだけではなく、アナイティスの手のひらから、ときおり新しい光の粒が生まれることがあった。
「もしかして」
アナイティスは、ある日の研究中に言った。
「私、新しい蝶を作れるんでしょうか」
「おそらく、そうだ」
アッシュルが静かに答えた。
「古の魔女が伝令蝶を作ったのも、同じ力だろう」
アナイティスは、自分の手のひらを見た。私の手で、新しい蝶が生まれる。不思議な気持ちだった。“翅なし”と呼ばれ続けた自分が——新しい何かを生み出せるかもしれない。
「アッシュル様」
「なんだ」
「……なんだか、嬉しいです」
アッシュルが、アナイティスの手をとって、甲に口づけた。
「まったく。俺の恋人は、可愛らしいな」
◇◇◇
——そして、ある夜のこと。
アッシュルの部屋で、いつものように二人は並んで長椅子に座っていた。燭台の火が、静かに揺れている。アッシュルがアナイティスの髪に触れた。指で丁寧に梳いて——それから、顔を近づけてきた。
「っ——あの、アッシュル様」
「なんだ」
「今日で何回目ですか、これ」
「数えていない」
「私は数えています」
「では何回目だ」
「……それはいいですから」
アナイティスが俯いた瞬間、アッシュルがアナイティスの手を取った。いつもと少し違う、静かな手の取り方だった。その黄金色の瞳は——、少し不安げだった。
「アナイティス」
「……はい」
「もう少し待てと、ダグラエンからも、ガランからも言われたが——もう、我慢ができない」
アッシュルが、続けた。
「俺と結婚してほしい」
部屋に、静寂が落ちた。
「お前無しでは生きていけない。お前の心も、体も、全てが欲しい」
アナイティスが、短く息を吸った。
「……アッシュル様」
「嫌なら——」
「嫌じゃないです」
即答だった。アッシュルが、わずかに目を見開いた。
アナイティスが、おずおずと言った。
「私も、あなたが好きです。あなたの声を聞いた時から。ずっと」
「俺もだ。アナイティス」
アッシュルが、アナイティスを引き寄せた。そのまま、口づけが落とされる。いつものように優しく。しかし——少しして、唇の角度が変わった。深く、ゆっくりと、逃がさないように。
「……っ」
やがて唇が離れると、アナイティスは短く息を吐いた。しかしアッシュルは顔を近づけたまま、静かにこちらを見つめている。
「アッシュル様……?」
困ったように呼ぶと——アッシュルの黄金色の瞳が、ぎらりと光った。静かな炎が、奥深くで燃えていた。瞬間、また唇が塞がれた。背中に手が添えられて、ゆっくりと、長椅子へと押し倒された。
「……んっ——」
口の中に、熱が満ちた。甘くて、深くて——頭が、とろけていく。首筋をそっと撫でられた瞬間、背筋を何かが駆け上がった。
だめ。
アナイティスは、咄嗟にアッシュルの胸を押すと、腕の中をするりと抜けて、立ち上がった。
「待て」
「す、少し、風に当たってきます!」
声を振り切って、夜風の中に出た。
◇◇◇
バルコニーは、静かだった。
夜の王都が、眼下に広がっている。星が出ていた。風が、アナイティスの髪を揺らした。
……逃げてきちゃった。嬉しかった。けど、胸がいっぱいで、どうしていいかわからなくて。
そのとき、金色の光が、バルコニーの端に滲んだ。光が人の形を取っていく。ヴェルだった。長い黒髪。金色の瞳。静かな顔で、アナイティスを見ていた。
「ヴェル。見てたの?」
「ああ」
ヴェルは悪びれる様子もなかった。
「まったく、若い男は余裕が無くていけない」
アナイティスは、その言い方がおかしくて、思わず笑った。
「そういうあなたは。何歳なのよ」
ヴェルは、答えない。
「あのね。ヴェル。私、ずっと前から、あなたを知っている気がするの」
アナイティスは続けた。
「うまく言えないけれど——蝶が舞う中で、あなたと会ったことがある気がして」
ヴェルの瞳が、わずかに揺れた。
しばらく、沈黙が落ちた。夜風が吹いた。
「アナイティス。君は、古の魔女の生まれ変わりだ」
ヴェルが、静かに言った。
「私は——その魔女の、夫だった。妻が亡くなったとき、その魂を見守るために不死の精霊となることを決めた」
アナイティスの手が、震えた。
「伝令蝶は」
ヴェルが続けた。
「君が作ってくれた。私に愛を囁くために」
ヴェルが、アナイティスを見た。
「君の魂を、永遠に愛している。これまでも。これからも」
その声は、低くて、穏やかで——どこか遠いところから届くような声だった。
「いつまでも見守っているよ。我が愛しの魂」
「ヴェル——」
金色の光が、満ちた。ヴェルの姿が、光の中に溶けていく。
「待って——」
アナイティスは手を伸ばした。しかし指は、光をすり抜けて、消えた。
バルコニーに、アナイティスだけが残った。涙が一筋、頬を伝った。嬉しいのか、悲しいのか、自分でもわからなかった。ただ——もう、会えはしないのだと分かった。
「アナイティス」
後ろから、声がした。
振り返ると、アッシュルが立っていた。彼は何も言わなかった。ただ、静かに歩いてきて——隣に立った。
夜風が吹いた。王都の灯りが、遠くに輝いていた。
「アナイティス」
アッシュルが、アナイティスを抱きしめた。
「このまま夜の闇に消えてしまいそうだ」
アッシュルの眼は、淡く光っていた。
「知っていましたか? アッシュル様」
アナイティスは、笑みを浮かべた。もう、涙は消えていた。
「何をだ」
「伝令蝶は、魔女が愛を囁くために作ったんだそうです」
アナイティスは両の手のひらを空へ向けた。
満開の花のような蝶が、降ってきた。
=終わり=
ここまで読んでいただきありがとうございました!
本編に入れることができなかった設定もいろいろあり
気が向いたら書きたいな・・・と思いつつ
アッシュルとアナイティスのハッピーエンドまで書き切れて良かったです。




