第18話 古の魔女
アナイティスは、アッシュルに連れられて、彼の屋敷へと戻った。
広い応接室に通されて、長椅子に腰を下ろす。アッシュルが隣に座った。自然に、当たり前のように。アナイティスは何も言わなかった。
しばらくして、扉が開いた。ガランと、そしてダグラエンが入ってきた。急いでいたのだろう。ガランの灰色の髪は、夜風に乱れていた。
「二人とも、無事でよかった。ダグラエン殿も、お疲れ様でした」
ガランが息をついた。
「俺は、ほとんど何もしてないけどな」
ダグラエンが苦笑いしながら扉の傍に立った。
「強いて言えば、あいつが破壊しまくった建物の後始末ぐらいで」
「首席の突入の仕方には、さすがに驚きました」
ガランが丸眼鏡を押し上げた。
「うるさい」
アッシュルが短く言った。しかしその声に、いつもの冷たさはなかった。
アナイティスは、自分の手のひらを見た。まだ、あの光の感触が残っている気がした。あれは、なんだったの? あれが、私の力なの?
そのとき、ヴェルがどこからともなく、肩の上へと乗ってきた。
「ヴェル! 今までどこにいたの?心配したのよ」
ヴェルが脚を一本あげると、光がうまれた。
「ヴェル?」
金色の光が蜘蛛の小さな体から溢れ出して、人の形を取っていく。
ダグラエンが「おいおいおい」と呟いた。ガランは静かに目を細めた。アッシュルが、じっとその光を見ていた。
光が、消えると。そこに、一人の男が立っていた。肩のあたりまで流れる黒髪。鈍く光る金の瞳。端正な顔立ち。背が高くて、静かで——目の色が、ヴェルの金と同じだった。
「……ヴェル」
男が、アナイティスを見た。その目が、静かに細まった。
「アナイティス。ずっと、この時を待っていた」
アナイティスは動けなかった。隣でアッシュルが、静かに立ち上がった。ヴェルを見る。その黄金色の瞳が、鋭く細まっていた。
「お前か。アナイティスを守っていたのは」
アッシュルが、一歩前に出た。
「そうだ」
ヴェルが静かに答えた。
「蝶への秘匿魔法も、声への幻惑魔法も、アナイティスを隠すための魔法も——すべて、私がかけた」
「なぜだ」
「アナイティスのためだ」
「おまえは一体、何者だ」
ヴェルはアッシュルの鋭い視線を受け止めてから、横のアナイティスに視線をずらした。
「私は古の魔女の魂を守り続けてきた。精霊だ」
部屋に、静寂が落ちた。
ガランが静かに口を開いた。
「……やはり、そうでしたか」
「ガラン翅師は、ヴェルがただの蜘蛛ではないと知っていたのですか」
アナイティスが問うと、ガランは少し困ったように笑った。
「薄々、感じていただけです。ヴェルはもしかして高次元の存在では、と。確信はありませんでした」
ヴェルがアナイティスの前にしゃがんだ。金色の瞳が、真っすぐにアナイティスを見ている。
「アナイティス」
「はい」
「お前は、古の魔女の生まれ変わりだ」
ヴェルが静かに言った。
「生まれた瞬間に、私との契約が成立した。だから魔力測定では弾かれた。お前の器は、すでに私で満たされていたから」
アナイティスは、自分の手のひらを見た。
「……私が、魔女の生まれ変わり」
「そうだ。お前の力は魔力ではない。もっと古いものだ。癒し手の力——傷を、病を、痛みを吸い取る力。それが、お前に宿っている」
アッシュルが静かに言った。
「俺の痛みが消えたのは、そのせいか」
「そうだ」
「なぜ今まで黙っていた」
アッシュルの声が、低くなった。
「もっと早く明かしていれば、アナイティスがこれほど苦しむことは——」
「契約だ」
ヴェルが静かに遮った。
「アナイティスが自身の力に気づいたとき、初めて私に言葉が与えられる。それまでは、告げることができなかった」
アナイティスは、ヴェルを見た。
「……ずっと、護ってくれていたのね」
「そういう契約だからな」
「いいえ、違うわ」
ヴェルが、わずかに目を細めた。
「あなたはいつだって、私の味方だったわ」
その言葉にヴェルの瞳に、わずかな熱が宿った。
「お前は、昔から変わらないな」
そう言って、ヴェルはアナイティスの額に口づけた。優しい仕草だった。
瞬間、部屋の空気が変わった。びりびりと、魔力の波動が走った。アナイティスは、思わずアッシュルを見た。黄金色の瞳が、細く、鋭く、静かに燃えている。消耗しきっているはずなのに、その気配は——明らかに不穏だった。
「……アッシュル様?」
「消す」
「え?」
「その精霊を、今すぐここから消す」
声が、低かった。
ガランが小さく「あ~」と言った。ダグラエンが天井を見上げた。
「ちょ、ちょっと待ってください」
アナイティスは、慌てて立ち上がり、アッシュルの腕を掴んだ。
ヴェルがアッシュルを見返す。その金色の目には、面白がっているような色があった。
「これだから、若い男は短気でいけない」
「黙れ」
「もう少し、待つこと覚えたほうがいい」
ヴェルは、静かに光ると、小さな黒蜘蛛の姿になった。足早に窓枠に飛び移る。八つの金色の目が、一度だけアナイティスを見た。それから、窓の外へと消えた。
アナイティスが、ヴェルを目で追ったのが分かって、アッシュルの瞳はさらに鋭くなった。腰に手をまわすと、ぐい、と引き寄せる。
「あ、アッシュル様!?」
「落ち着け、アッシュル」
ダグラエンが、扉の方へ向かいながら言った。
「俺たち、邪魔者は消えるからよ」
ガランも苦笑いすると立ち上がった。アナイティスに小声で囁く。
「頑張りなさい、アナイティス」
「ガラン翅師!」
アナイティスは、思わず声を張り上げた。
◇◇◇
部屋に、二人だけが残った。
沈黙が、落ちた。
「あの」
アナイティスが口を開こうとした瞬間、腕を引き寄せられる。
気づいたら、アッシュルの胸の中にいた。
「っ——」
「やっと、二人になれた」
低い声が、頭上から落ちてきた。
「アナイティス」
腕の力が、きつくなった。
……息が、できない。できないけれど、離れたくなかった。しばらく、そのままでいた。アッシュルの心音が、聞こえた。思っていたより、速かった。
「……アッシュル様」
「なんだ」
「あの、息が苦しくて……」
腕が、少しだけ緩んだ。アナイティスは顔を上げた。アッシュルが、真っすぐに見下ろしていた。その黄金色の瞳が、いつもと違った。冷たくない。静かでもない。何かが、燃えていた。
「好きだ」
短かった。飾りが、何もなかった。アナイティスの頬が、一気に熱くなった。
アッシュルが続けた。
「お前の声が好きだ。お前の手が好きだ。お前がよく転ぶのも、蝶に話しかけるのも、泣いてすぐ立ち直るのも——全部、好きだ」
アナイティスは俯いた。顔が、耳まで熱かった。心臓がうるさい。どこを向いても、アッシュルしかいない。
「アッシュル様、その」
「なんだ」
「恥ずかしいです」
アッシュルが、静かになった。アナイティスはますます俯いた。耳まで赤くなっているのが、自分でもわかった。うつむいた拍子に、髪が頬にかかった。
アッシュルは、黙ったままだ。沈黙に耐えかねて顔を上げると、目が合った。いつもの黄金色の瞳が、今夜は少し違う色をしていた。
「可愛い」
「あの……」
「好きだ」
「……そんな」
「口づけてもいいか」
アナイティスは、固まった。
「お前に口づけてもいいか」
アッシュルが、もう一度、静かに言った。言い訳も、照れ隠しも、何もなかった。ただ、真っすぐだった。
アナイティスの顔が、一気に熱くなった。
「そ、そういうことを、急に——」
「急ではない。ずっと思っていた」
「ずっと!?」
「嫌か」
アナイティスは俯いた。俯いたまま、小さく首を振った。
「……いやじゃ、ないですけど」
「では——」
「恥ずかしいです」
部屋に、沈黙が落ちた。
アッシュルが、静かに言った。
「恥ずかしがっている姿も、可愛い」
「……っ」
アナイティスが顔を覆おうとした瞬間、頬に、温かいものが触れた。
唇だった。
やわらかくて、静かで、あっという間だった。ほんの一瞬、頬に触れて、離れた。
「……うそ」
アナイティスは動けなかった。触れた場所が、じんと温かかった。
「アナイティス」
アッシュルが、低く呼んだ。
顔を上げると、すぐそこに黄金色の瞳があった。
「好きだ」
声が、静かだった。蝶に吹き込まれたアスの声と、同じ声だった。
「俺から離れようとしないで。どんな君でも、俺は君が好きだ」
アナイティスの目が、じわりと滲んだ。
「諦めて俺のものになってくれ」
「アッシュル様……」
「嫌なら——」
「嫌じゃないです」
アナイティスは、震える声で言った。
「でも——」
「でも?」
「恥ずかしくて、死にそうです」
アッシュルが、静かに笑った。さっきより、少し長く。
「愛してる」
「もう——!」
アナイティスが両手で顔を覆った。アッシュルが、その手をそっと外した。真っ赤な顔が、あらわになった。アッシュルは、その顔をしばらく見ていた。それから、静かに言った。
「もう一度、いいか」
アナイティスは、小さく頷いた。




