第17話 癒し手
廃墟が見えた瞬間、アッシュルは走るのをやめた。
歩いた。ゆっくりと、しかし確実に。
「首席、待ってください。騎士団が来るまで——」
ガランの声が後ろから聞こえた。
アッシュルは振り返らなかった。
正面の門に、白装束の男が三人立っていた。アッシュルを見て、止まれと叫んだ。魔法陣を展開しようとした。
アッシュルは右手を上げた。それだけだった。
三人が、音もなく吹き飛んだ。
「……」
ガランが、思わず立ち止まった。
「ガラン翅師」
アッシュルは歩きながら言った。
「遅れるな」
「は、はい」
アッシュルとガランは、廃墟の内部へ踏み込んだ。
薄暗い廊下。左右から白装束の男たちが現れた。魔法を展開しようとした。アッシュルは歩みを止めず、ただ魔力を放った。爆風のような魔力の波が廊下を走り、男たちが壁に叩きつけられた。
ガランが、あっけにとられながらも、ついてくる。
「首席、このままでは魔力が——」
「うるさい」
「で、ですが——」
アッシュルは答えなかった。
アナイティスがいる。この先に。早く、助けなくては。
廊下の奥に、重い扉があった。向こうから詠唱の声が聞こえた。儀式が、始まっている。アッシュルは扉に手をかけた。封印魔法がかかっていた。
蹴破った。
扉が、轟音とともに吹き飛んだ。
◇◇◇
扉の向こうは、白い光で満ちていた。
魔法陣が輝いている。白装束の人間たちが、円を描いて詠唱している。そして——
台座の上に、アナイティスがいた。
白い衣を着せられて、手首を光の縄で縛られて、台座に横たわっていた。目を閉じている。顔が青白い。頬に涙の跡があり、手首にこすれたような傷跡があった。
その瞬間、アッシュルの中で何かが、音を立てて切れた。
涙。縄。傷。
アナイティス。
俺の。
「やめろ」
声は怒りに満ちていた。部屋中が、びりびりと震えた。隅の何人かが、音もなく倒れた。
詠唱が止まり、白装束の人間たちが振り返った。その中の一人、年配の男が静かに言った。
「邪魔をしてはなりません。これは神聖な——」
アッシュルは右手を上げた。
それだけだった。
部屋の端の男たちが、次々と弾き飛んだ。壁に叩きつけられ、倒れた。立ち上がろうとした者には、追加の魔力が叩きつけられた。
「ば、化け物……」
年配の男が、魔法陣を展開しようとした。アッシュルは一歩も動かずに、その魔法陣を霧散させた。男が青い顔で後退した。
全員、殺してやる。
いや、あとかたもなく消し去ってやる。
胸の中で、何かが煮えていた。怒りとも、恐怖とも、違う何かが。抑え込んでいた魔力が、感情の揺れに引きずられて、溢れ出してくる。
「首席!」
ガランの声が、遠くで聞こえた。
「魔力が——暴走しています!」
わかっていた。わかっていながら、暴走を止められなかった。鋭い痛みが、心地良くすらあった。彼女を守れず危険に晒した。その罰を受けたかった。
部屋の壁が、ひびを入れて崩れ始めた。床の魔法陣が、アッシュルの魔力に押されて消えていく。白装束の人間たちが逃げ惑った。
ガランが結界を張って身を守りながら、アッシュルへ向かおうとしていた。しかし近づけない。溢れ出す魔力が、波のように広がっていた。
◇◇◇
「起きなさい、アナイティス」
静かな声がした。
低くて、穏やかで、どこか懐かしい声だった。
台座の上で、アナイティスの目が、ゆっくりと開いた。
肩の上のヴェルが、金色の光を放っていた。光が手首の縄に触れると、縄が音もなく解けた。
「ヴェル……?」
行け、と言っているような気がした。
アナイティスは台座から降りた。足元がふらついた。しかし目の前に広がる光景を見て、ふらつきが止まった。
アッシュルが、部屋の中央に立っていた。全身から魔力が溢れ出して。金色の瞳が、色を失っている。床が、壁が、ひびを入れて崩れていく。
ガランが遠くで「首席!」と叫んでいた。
アナイティスは走った。
「アナイティス、近づくな!」
ガランが叫んだ。
しかしアナイティスは止まらなかった。溢れ出す魔力の波が、体にぶつかってくる。痛かった。それでも、止まらなかった。
アスが、アッシュル様が、苦しんでいる。
ほっておけない。
アナイティスは、アッシュルの前に立った。アッシュルから溢れる魔力の波が、彼女の服を裂き、肌に無数の切り傷を付けてゆく。
「アッシュル様。助けに来てくださったんですね」
アナイティスは、アッシュルの両手をとった。手は傷だらけで、固く震えていた。
「こんなに、なってまで。ごめんなさい。ありがとう」
手のひらが、光った。今までとは違う光だった。温かくて、深くて、古くて——建物全体を満たすほどの光。
アッシュルから溢れ出していた魔力が、光の中に吸い込まれていく。みるみる、静まっていく。壁のひびが、これ以上広がらなくなった。床の崩れが、止まった。
やがて、アッシュルの膝が折れた。アナイティスが両手で支える。腕の中で、アッシュルの全身からゆっくりと力が抜けていった。
「アッシュル様」
返事がなかった。
しばらくして、まぶたがかすかに動いた。金色の瞳が、ゆっくりと開く。
「……ベルン?」
焦点が合うまで、少し時間がかかった。やがてアッシュルが、アナイティスを見つけた。
「アナイティス」
柔らかな声だった。とたん、アナイティスの目から涙が溢れた。涙の粒がぽたりぽたりと、アッシュルの頬に落ちた。
「ごめんなさい」
アナイティスの声が、震えた。
「ごめんなさい、アス。私が——私がベルンなの」
アッシュルは動かなかった。ただ、アナイティスを見つめていた。涙をこぼし、震えながら、それでも真っすぐに自分を見ているアナイティスを。それから、ゆっくりと、アナイティスを引き寄せた。
「知っていた。アナイティス」
アッシュルは、それ以上何も言わなかった。ただ、アナイティスを強く抱きしめた。
——ようやく、おまえと会えた。
アッシュルの眼が、そう囁いていた。




