第16話 神の花嫁
石造りの高い天井。燭台の炎が揺れている。
——ここは?
アナイティスは、体を起こそうとして、両手首に何かが巻かれているの気づいた。光を帯びた細い縄。それが手首を縛って、どこかへと伸びている。そして——自分の姿を見下ろして、血の気が引いた。見慣れない白い衣を着ていた。胸元が大きく開き、体の線にぴたりと沿った純白のドレス。まるで婚礼衣装のような。
……何、これ。
私、昨日はアッシュル様を見送って、そのまま部屋で寝て——
「目が覚めましたか、花嫁様」
声がした。白装束をまとった年配の男が、穏やかな顔で立っていた。しかしその目が——どこか不気味な光を帯びていた。
「ここは……どこですか」
「エアの祭壇です」
男が静かに言った。
「あなたが本来いるべき場所ですよ」
広い石造りの部屋。白装束の人間が何人も並んでいる。中央に、複雑な魔法陣が描かれた台座。アナイティスはその台座の上に座らされていた。
「何をするつもりですか」
「古の魔女の血筋を、我らの神に捧げる儀式です」
男が続けた。
「あなたは選ばれた存在。神の花嫁として、我らとともに歩むのです」
神の花嫁。
「私には魔力がありません。“翅なし”です。人違いでは——」
「翅なし、などと。そんな下卑た言い方はおやめください」
男が言った。
「古の尊き血筋を、現代の尺度で測ることなどできるはずがない。何千年もの長きにわたり、私たちは星の光を観測してきました。そしてついに——あなたを見つけたのです。古の魔女殿」
アナイティスは手首の縄を引いた。びくともしなかった。
肩の上に、重みがあった。ヴェルだ。金色の目が、いつもより深く光っていた。その目が——何かを知っているような、複雑な色をしていた。
「ヴェル」
アナイティスは小声で呼んだ。
「どうしたらいいの」
ヴェルは答えなかった。ただ、静かに脚をアナイティスの首筋に当てた。大丈夫だ、と言っている気がした。
「儀式を始めましょう」
男が合図をした。白装束の人間たちが、詠唱を始めた。魔法陣が光り始める。
アナイティスは、震えながら目を閉じた。
アス。
アッシュル様。
お願い、助けて。
◇◇◇
ガランが、伝令蝶管理室の、ありとあらゆる扉を開けては閉めていた。
いない。ここにも、アナイティスの姿がない。蝶たちが、いつもと違う動きをしていた。落ち着きなく、棚の中で翅をはためかせている。まるで何かを感じ取っているように。
「アナイティス……」
ガランは丸眼鏡を押し上げた。寮に行ってみたが、部屋は空だった。窓が少し開いていて、ヴェルの姿もなかった。昨夜から、誰も見ていないという。
何かおかしい。嫌な予感がする。
ガランは懐から魔法石を取り出した。探知魔法用の石だ。長年の研究で磨いた、繊細な探知魔法を展開する。アナイティスには通常の魔力がない。だから、普段からこの石と共鳴する、特殊な魔石を持たせていた。
魔法石が、かすかに光った。しかしすぐに消えた。
もう一度。
また消えた。
……どこにいる。アナイティス。
ガランは三度試みた。やはり、消息はついぞ知れなかった。強力な隠蔽魔法がかかっている。ガランの探知魔法では届かない。碧の瞳が、静かに、しかし確かに怒りの色を帯びていた。
首席執務室の扉を、ガランが叩いたのはそれからすぐのことだった。
「失礼します、アッシュル首席」
アッシュルが書類から顔を上げた。ガランの顔を見て、眉をわずかに動かした。
「アナイティスが、いなくなりました」
室内の空気が、びりびりと音を立てた。アッシュルの魔力の波動だ。力の弱い者なら、寝込んでしまうだろう。
アッシュルは、ゆっくりと立ち上がった。
「いつからだ」
「昨夜から、誰も見ていません。部屋も空で、探知魔法にも引っかかりません」
ガランは続けた。
「……心当たりがあります。古の魔女の血筋を崇める狂信的な集団が、王都の外れに潜伏しているという情報が以前からありました。彼らは古の魔女を——」
「神の花嫁、か」
アッシュルが静かに言った。
ガランが目を見開いた。
「……ご存知でしたか」
「あの反王政ゲリラどもは、すべて潰したと思っていたが」
アッシュルは窓の外を見た。
「残党が、アナイティスを狙っていたということか」
「おそらく」
少しの間、沈黙が落ちた。
アッシュルが、燃える眼でガランを見た。
「……おまえ、知っていたな」
「……何を、でしょうか」
「アナイティスが、癒し手だということを」
ガランは何も言わなかった。ただ、丸眼鏡の奥の碧の目が、静かに揺れた。
アッシュルは短く言った。
「まあいい。今はそれより、アナイティスの無事が先だ」
ガランが、深く頭を下げた。
「……はい」
アッシュルは上着を掴んだ。
「中庭に来い」
◇◇◇
アッシュルは結界を広げた。先日の消耗がまだ残っている。それでも——構わなかった。
魔力が、王都全体へと広がっていく。建物の壁を、路地の石畳。——今度は王都の外まで、さらに広げた。膨大な消耗が、全身を蝕む。激しい痛みに額に汗が浮かんだ。膝が、わずかに震えた。
ガランが、静かに回復魔法を展開した。
「まったく、けた外れの魔力ですね……」
アッシュルは答えなかった。意識を、アナイティスに向ける。探す。王都の外れ。その、さらに外——
いた。
淡く、ゆるく、愛おしい光。
俺のアナイティス。
「見つけた」
「どこですか」
「王都の外れ、南の廃墟だ」
アッシュルは目を開けた。足元が、わずかにふらついた。ガランが咄嗟に支えた。
「天翅庁の騎士団にも連絡を」
アッシュルは短く言った。
「俺は、アナイティスを迎えに行く」
「私も参ります」
二人は中庭を歩き出した。その途中、ガランが足を止めて、静かに空を見上げた。そして、誰にともなく、小さく呟いた。
「私たちが着くまで、頼みましたよ。ヴェル」
アッシュルが、ちらりとガランを見た。
しかし何も聞かなかった。
二人は足を速め、やがて走り出した。




