第15話 ダグラエンの災難
アッシュル視点です
アナイティスの部屋の扉を閉めた瞬間、アッシュルは大きなため息をついてその場に座り込んだ。
アナイティス。
俺のアナイティス。
柔らかくて、良い匂いで。
——理性が、飛ぶかと思った。
あたたかな感触が、手にまだ残っていた。さらさらとした髪の手触りと、あの微かに甘い香りが、鼻の奥にある。思わずそのまま、抱きしめて、口づけてしまいそうだった。全身に自分の印をつけて。希少な宝石のように、誰にも見せずに、どこかにしまい込みたかった。
……まったく、どうかしている。
◇◇◇
「……で、そのまま気がついたら足が俺の家に向かってたってことか」
扉を開けたダグラエンが、呆れた顔でアッシュルを見た。
「勘弁しろよ」
「上がらせてもらう」
「もう上がってるだろ」
ダグラエンが酒を飲み干すと、溜め息をついた。
「で、ベルンは、結局、誰だったんだ」
「天翅庁の伝令蝶管理室の職員だ。アナイティス、という」
ダグラエンが酒を注ぐ手を止めた。
「管理室って……おまえが研究してた……」
「そこの期限付き職員だ」
「王都の郵便局、全部当たったじゃないか」
「そうだ」
「王都全体に結界張ったじゃないか」
「そうだ」
ダグラエンが盛大に息を吐いた。
「お前ってやつは、本当に」
「うるさい」
「いや笑うに笑えない」
ダグラエンが杯を置いた。
「それで、どうするつもりだ」
アッシュルは杯を手に取った。
「結婚を、申し込むつもりだ」
ダグラエンが固まった。
「今すぐ?」
「今すぐだ」
「おまえ、自分がアスだって言ったのか?」
「まだだ」
ダグラエンは、しばらく天井を見ていた。それからアッシュルを見た。
「おまえ、正気か」
「分からない」
ダグラエンは大きくため息をつくと立ち上がって、棚から乾き物を取り出した。机に置きながら、続けた。
「まあ、聞けよ。まずは、自分がアスだって、ちゃんと言え。そのうえで、正面からぶつかってダメなら、砕けるだけだ」
「砕ける」
「そうだ。でも——」
ダグラエンが、椅子に戻った。
「お前に、声を届けてくれた女性だろ。きっと大丈夫さ」
アッシュルは黙っていた。
ダグラエンが静かに言った。
「お前、怖いんだろ。自分が受け入れてもらえるか、不安なんだろ」
「……うるさい」
「図星だろ」
ダグラエンが苦笑いした。
「行け。正面から。それがお前にできる唯一のことだ」
アッシュルは杯を置いた。顔がわずかに赤い。
「正面から……」
そのとき、ダグラエンが、少し表情を変えた。
「ただ——一つ、気になることがある」
「なんだ」
「あの蝶にかけられていた魔法のことだ」
ダグラエンが静かに言った。
「秘匿魔法も、声への幻惑魔法も——その女性にはおそらく、不可能な代物だ。あれだけの細工をできる存在が傍にいて、彼女を守っている、てことになる」
アッシュルは眉をひそめた。
「アナイティスは、“癒し手”かもしれん」
とたん、ダグラエンが慌てる。
「“癒し手”!? おいおい、嘘だろ。癒し手なんざ、この数百年出てねえ。超希少能力だぞ。古の魔女でもなきゃ——」
そこまで言って、ダグラエンは口をつぐむ。アッシュルの眼が、あまりに鋭かった。
癒し手かもしれないアナイティスを守る、何者か。アッシュルの脳裏に、一人の顔が浮かんだ。ガラン翅師。天翅庁でも指折りの実力を持つ五枚翅。なぜかずっと地下室に篭って蝶の研究を続けている変わり者。いつも彼女の傍にいて、アナイティスのためなら、上へ歯向かうことも辞さない。
あの男が、魔法をかけたのか。
あの男は、アナイティスのなんだ。
「……その存在が」
アッシュルは静かに聞いた。
「もしアナイティスと、特別な関係だったとしたら」
ダグラエンが首を傾げた。
「特別な関係?」
「恋人、だったりしたら」
ダグラエンが盛大にむせた。
「え、なんで急にそうなる」
「いつも傍にいる。アナイティスも慕っている」
「誰なんだ。そいつは」
「ガラン翅師。アナイティスの上司だ」
「上司と部下だったら、傍にいるのは当たり前だろ」
「なぜ分かる」
アッシュルが、じっとりと睨んだ。
「いや、知らないけど」
ダグラエンが呆れた顔をした。
「お前、嫉妬してるのか」
「していない」
「してるじゃないか」
アッシュルは杯を置いた。胸の中で、何かがじわりと燃えていた。嫉妬、というものを自覚したのは初めてだったが、確かにこれはそれだった。
「……もしあの五枚翅が、アナイティスの恋人だとしたら」
アッシュルは静かに、しかし確かな声で言った。
「消すしかない」
「は?」
「存在ごと消して、なかったことにする」
「消すって、おまえ。五枚翅の魔法師をか!?」
「俺は八枚翅だ」
「そういう話じゃなくて!」
ダグラエンが頭を抱えた。
「お前、本当に大丈夫か。恋愛って人をここまでおかしくするのか」
「うるさい」
「うるさいじゃなくて!」
ダグラエンが深呼吸をした。
「……とにかく。まず話を聞いてからにしろ。いきなり消すとか物騒なこと言うな。その、アナイティスさんに嫌われるぞ」
アッシュルは黙った。
「嫌われたくないだろ」
「……当然だ」
「じゃあ、まず話をしろ。正面から、全部」
ダグラエンが苦笑いした。
「どうせお前のことだ、ガラン翅師が恋人だなんて早とちりだろ」
アッシュルは立ち上がった。窓の外の夜を見た。
アナイティス。——お前の影にいる何かを、必ず突き止めてみせる。
「邪魔したな、ダグラエン」
「なんだ、もう行くのか」
「ああ。王宮図書館で癒し手のことを調べる」
「こんな夜更けにかよ」
ダグラエンが苦笑いしながら、アッシュルを送り出した。
——その穏やかな夜が、嵐の前の静けさだと、知りもせず。




