第14話 君が好きだ
アナイティスは椅子を引いて、寝台の傍に座ったままだった。自分の手のひらをずっと見ていた。ただ握って、祈っただけだ。なのに——何かが、確かに起きた。
そして。
「ベルン」
なぜ、アッシュル様の口から、その言葉が?
◇◇◇
アッシュルが目を覚ましたのは、昼過ぎのことだった。
長い睫毛がぴくりと動き、まぶたがゆっくりと開く。
「……」
黄金色の瞳が、天井を見て、それからアナイティスを見た。
「気がつかれましたか」
アナイティスは努めて平静に言った。
「少し、眠っておられました」
アッシュルは少し間を置いてから、身を起こそうとした。
「あの、まだ——」
「大丈夫だ」
起き上がったアッシュルは、自分の手をじっと見た。
「痛みが消えた」
「……」
「長年、ずっとあった痛みだ。それが——消えている」
その瞬間、視界が、ぱっと開けた気がした。
長年、ずっとあった痛み。アスも言っていた。生まれつきの病で、ずっと痛みがあると。根本的な治療法はないと言われた、と。
アッシュル様の声。短くて、無駄がなくて、でも誠実で。アスと同じ。同じ口調だ。なんで、今まで気づかなかったんだろう。頭の中で、点と点が繋がっていく。
「……アッシュル様は」
アナイティスは、恐る恐る口を開いた。
「ずっと、痛みを抱えておられたんですか」
「ああ」
「生まれつき、ですか」
アッシュルが、わずかに目を細めた。
「……なぜそれを知っている」
「あ、いえ、その」
アナイティスは慌てた。しまった。アスから聞いたことを、うっかり口にしてしまった。
「顔色がずっと優れないと思っていたので、もしかして、と」
誤魔化した。苦しい言い訳だと自分でも思った。
アッシュルはアナイティスから視線を逸らし、「そうか」とだけ言った。
アナイティスは、自分がベルンだと言いたかった。でも、言い出せない。ベルンなんていない。名前も職業も、全てが嘘だった。嘘をついていたことへの罪悪感が、言葉を押し込んでしまう。もし私がベルンだと知ったなら、どれほど失望するだろう。翅なしの、地下室のアナイティス。
沈黙を破るように、アッシュルが静かに呟いた。
「……お前の力のことを聞きたい」
「私の、力、ですか?」
「お前が触れたとき、痛みが消えた。魔力なしと判定されているお前が、なぜこのような力を持っている。この痛みを消すなど、どんな治癒魔法師にも不可能なことだ」
「私にも、わかりません」
アナイティスは自分の手のひらを見た。
「ほっておけなくて。触れたら——」
アナイティスはそれきり、黙り込む。アッシュルも何も言わない。
部屋に、再び沈黙がおりた。
◇◇◇
ふと、アッシュルは、《《何かに導かれるように》》部屋の中を見渡した。
アナイティスの部屋は質素だった。白いカーテンのついた小さな窓、本棚、机、——視線が、机の上で止まった。何もない。見えない。しかし確かに、そこにある。
魔力の欠片。
ベルンの蝶に付けたはずの欠片が、そこにあった。
アッシュルはゆっくりと、視線をアナイティスに戻した。
ベルン。
アナイティスが、ベルンだったのか。
深い喜びが、静かに満ちた。
とうとう、見つけた。
伝令蝶を扱える者。蝶に話しかける癖。そして——「ほっておけなくて」という、言葉。すべての欠片がぴたりと収まり、一つになった。
だから、俺はアナイティスに惹かれていたのか。
とたん、目の前のアナイティスへの愛おしさが、心にせり上がってきた。愛しいベルン、いや、アナイティス。お前が好きだ。愛している。ずっとお前を探していた。求めていた。俺のものになってくれ。——今すぐ、愛を告白して、アナイティスを自分のものにしたかった。
と。
ここで。アッシュルの思考が停止した。
アナイティスにしてきた自分の言動の数々を、思い出した。“翅なし”と呼んだ。冷たく接し続けた。魔力測定をさせろと、腕を掴んで泣かせた。
最低だ。それなのに今さら「アスだ」と名乗って——アナイティスは、どう思う。拒否されるだろうか。いや、二度と口を聞いてくれなくなるかもしれない。
「……あの、アッシュル様。どうかされましたか」
アナイティスが、おずおずと口を開いた。
ああ。その遠慮がちな様子も、穏やかな声も、淡い紅に色づいた唇も。すべてが愛おしい。アッシュルは、思わずアナイティスに手を伸ばしそうになって、誤魔化すように咳をした。
「いや、何もない」
「そうですか」
また、沈黙。
二人とも、言えない言葉を抱えたまま、部屋の中にいた。窓から朝の光が差し込んでいる。
「あの」
アナイティスが口を開いた。
「お水を持ってきます」
「ああ」
アナイティスが立ち上がって、棚の方へ向かった。その瞬間、足が机の角に——
「——っ」
引っかかった。よろけたアナイティスの体が、後ろへ傾く。
アッシュルの手が、咄嗟に伸びた。アナイティスの腕を掴んで、引き寄せる。勢い、距離が縮まった。気づけば、寝台の上で二人は抱き合っていた。いや、抱き合っているような恰好で、倒れこんでいた。
◇◇◇
どくん、どくんと、耳元で心音が聞こえる。顔が近い。息がかかる。アッシュル様の腕が、私の背中にある。アナイティスの頬が、一気に熱くなった。
「……お前は、本当によく転ぶな」
低い声が、落ちてきた。
「す、すみません……!」
アッシュルが、アナイティスを抱えたままゆっくりと身体を起こした。そして、アナイティスを、寝台の上へと座らせる。その手つきは、繊細で優しかった。
アナイティスは俯いたまま、寝台から立ち上がり棚へと向かう。心臓がうるさい。顔が熱い。どうして。なんでこんなに、どきどきするの。アスに? それとも、アッシュル様に?
気づくとヴェルが机の上で、小刻みに揺れていた。
「笑わないでよ」とアナイティスは心の中で呟いた。
◇◇◇
少しして、アッシュルが寝台から立ち上がった。
「もう行く。邪魔をした」
「いえ、あの——本当に、大丈夫ですか」
「ああ」
アッシュルは扉へ向かいながら、少し間を置いた。
「……お前のおかげで、助かった」
そして、振り返りもせず出てゆく。
扉が閉まった。
アナイティスはしばらく、扉を見つめていた。
「……アッシュル様が」
アナイティスは静かに呟いた。
「アス、だったんだ」
アナイティスは自分の手のひらを見た。まだ、温かい気がした。
『どんな君でも、俺は君が好きだ』
その声が、今はアッシュルの顔と重なって聞こえた。
——アナイティスは、自分の顔から湯気が出ている気がした。




