表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

PR
14/20

第14話 君が好きだ

 アナイティスは椅子を引いて、寝台の傍に座ったままだった。自分の手のひらをずっと見ていた。ただ握って、祈っただけだ。なのに——何かが、確かに起きた。


 そして。


「ベルン」


 なぜ、アッシュル様の口から、その言葉が?


 ◇◇◇


 アッシュルが目を覚ましたのは、昼過ぎのことだった。

 長い睫毛がぴくりと動き、まぶたがゆっくりと開く。


「……」


 黄金色の瞳が、天井を見て、それからアナイティスを見た。


「気がつかれましたか」

 アナイティスは努めて平静に言った。

「少し、眠っておられました」


 アッシュルは少し間を置いてから、身を起こそうとした。


「あの、まだ——」

「大丈夫だ」


 起き上がったアッシュルは、自分の手をじっと見た。


「痛みが消えた」

「……」

「長年、ずっとあった痛みだ。それが——消えている」


 その瞬間、視界が、ぱっと開けた気がした。


 長年、ずっとあった痛み。アスも言っていた。生まれつきの病で、ずっと痛みがあると。根本的な治療法はないと言われた、と。


 アッシュル様の声。短くて、無駄がなくて、でも誠実で。アスと同じ。同じ口調だ。なんで、今まで気づかなかったんだろう。頭の中で、点と点が繋がっていく。


「……アッシュル様は」

 アナイティスは、恐る恐る口を開いた。

「ずっと、痛みを抱えておられたんですか」


「ああ」

「生まれつき、ですか」


 アッシュルが、わずかに目を細めた。

「……なぜそれを知っている」


「あ、いえ、その」

 アナイティスは慌てた。しまった。アスから聞いたことを、うっかり口にしてしまった。


「顔色がずっと優れないと思っていたので、もしかして、と」

 誤魔化した。苦しい言い訳だと自分でも思った。


 アッシュルはアナイティスから視線を逸らし、「そうか」とだけ言った。


 アナイティスは、自分がベルンだと言いたかった。でも、言い出せない。ベルンなんていない。名前も職業も、全てが嘘だった。嘘をついていたことへの罪悪感が、言葉を押し込んでしまう。もし私がベルンだと知ったなら、どれほど失望するだろう。翅なしの、地下室のアナイティス。


 沈黙を破るように、アッシュルが静かに呟いた。

「……お前の力のことを聞きたい」


「私の、力、ですか?」

「お前が触れたとき、痛みが消えた。魔力なしと判定されているお前が、なぜこのような力を持っている。この痛みを消すなど、どんな治癒魔法師にも不可能なことだ」


「私にも、わかりません」

 アナイティスは自分の手のひらを見た。

「ほっておけなくて。触れたら——」


 アナイティスはそれきり、黙り込む。アッシュルも何も言わない。

 部屋に、再び沈黙がおりた。


 ◇◇◇


 ふと、アッシュルは、《《何かに導かれるように》》部屋の中を見渡した。


 アナイティスの部屋は質素だった。白いカーテンのついた小さな窓、本棚、机、——視線が、机の上で止まった。何もない。見えない。しかし確かに、そこにある。


 魔力の欠片。

 ベルンの蝶に付けたはずの欠片が、そこにあった。


 アッシュルはゆっくりと、視線をアナイティスに戻した。


 ベルン。

 アナイティスが、ベルンだったのか。


 深い喜びが、静かに満ちた。


 とうとう、見つけた。


 伝令蝶を扱える者。蝶に話しかける癖。そして——「ほっておけなくて」という、言葉。すべての欠片がぴたりと収まり、一つになった。


 だから、俺はアナイティスに惹かれていたのか。


 とたん、目の前のアナイティスへの愛おしさが、心にせり上がってきた。愛しいベルン、いや、アナイティス。お前が好きだ。愛している。ずっとお前を探していた。求めていた。俺のものになってくれ。——今すぐ、愛を告白して、アナイティスを自分のものにしたかった。


 と。

 ここで。アッシュルの思考が停止した。


 アナイティスにしてきた自分の言動の数々を、思い出した。“翅なし”と呼んだ。冷たく接し続けた。魔力測定をさせろと、腕を掴んで泣かせた。


 最低だ。それなのに今さら「アスだ」と名乗って——アナイティスは、どう思う。拒否されるだろうか。いや、二度と口を聞いてくれなくなるかもしれない。


「……あの、アッシュル様。どうかされましたか」

 アナイティスが、おずおずと口を開いた。


 ああ。その遠慮がちな様子も、穏やかな声も、淡い紅に色づいた唇も。すべてが愛おしい。アッシュルは、思わずアナイティスに手を伸ばしそうになって、誤魔化すように咳をした。


「いや、何もない」

「そうですか」


 また、沈黙。


 二人とも、言えない言葉を抱えたまま、部屋の中にいた。窓から朝の光が差し込んでいる。


「あの」

 アナイティスが口を開いた。

「お水を持ってきます」


「ああ」


 アナイティスが立ち上がって、棚の方へ向かった。その瞬間、足が机の角に——


「——っ」


 引っかかった。よろけたアナイティスの体が、後ろへ傾く。


 アッシュルの手が、咄嗟に伸びた。アナイティスの腕を掴んで、引き寄せる。勢い、距離が縮まった。気づけば、寝台の上で二人は抱き合っていた。いや、抱き合っているような恰好で、倒れこんでいた。


 ◇◇◇


 どくん、どくんと、耳元で心音が聞こえる。顔が近い。息がかかる。アッシュル様の腕が、私の背中にある。アナイティスの頬が、一気に熱くなった。


「……お前は、本当によく転ぶな」

 低い声が、落ちてきた。


「す、すみません……!」


 アッシュルが、アナイティスを抱えたままゆっくりと身体を起こした。そして、アナイティスを、寝台の上へと座らせる。その手つきは、繊細で優しかった。


 アナイティスは俯いたまま、寝台から立ち上がり棚へと向かう。心臓がうるさい。顔が熱い。どうして。なんでこんなに、どきどきするの。アスに? それとも、アッシュル様に?


 気づくとヴェルが机の上で、小刻みに揺れていた。

「笑わないでよ」とアナイティスは心の中で呟いた。


 ◇◇◇


 少しして、アッシュルが寝台から立ち上がった。

「もう行く。邪魔をした」


「いえ、あの——本当に、大丈夫ですか」

「ああ」


 アッシュルは扉へ向かいながら、少し間を置いた。

「……お前のおかげで、助かった」


 そして、振り返りもせず出てゆく。


 扉が閉まった。

 アナイティスはしばらく、扉を見つめていた。


「……アッシュル様が」

 アナイティスは静かに呟いた。

「アス、だったんだ」


 アナイティスは自分の手のひらを見た。まだ、温かい気がした。


『どんな君でも、俺は君が好きだ』


 その声が、今はアッシュルの顔と重なって聞こえた。


 ——アナイティスは、自分の顔から湯気が出ている気がした。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ