第13話 どんな君でも
その夜、アナイティスは窓辺で本を読んでいた。
アスへの別れを告げてから、何日が経っただろう。胸の痛みは、少しずつ薄れてきていた。薄れてきていた——はずだった。
……アス、元気にしてるかな。
考えないようにしていたのに、ふとした瞬間に浮かんでくる。痛みは大丈夫だろうか。夜、眠れているだろうか。
ふっと、本から視線を外すと、ハンカチが目に入った。アッシュル様。今日は少し顔色が悪かったな。「大事な人がいる」と言ったときの柔らかな声。ハンカチを返してくれた筋張った手。抱き留められたときの、硬い胸板。
……って、なんでアッシュル様の事を考えてるのよ。関係ないでしょ。あの人は。アナイティスは慌てて本を閉じた。
ヴェルが肩の上で、ゆっくりと脚を持ち上げた。
「なによ、からかう気?」
アナイティスが本を開き直した。そのとき、窓の外から、光が差し込んだ。
蝶だった。あの淡く青白い光。間違いない。
「……蝶が、戻って来たんだわ」
ヴェルが動いた。肩から飛び降りて、机の上を走り回る。これほど激しく動くヴェルを、アナイティスは見たことがなかった。
「ヴェル、どうしたの?」
ヴェルは答えない。しかし金色の目が、蝶とアナイティスの手を交互に見ていた。
蝶に触れるな、と言っているようだ。アナイティスは迷った。もう返事はしないと決めた。でも——助けを求める声だったら? 病気がひどくなってしまっていたら? そう思うと、蝶を無視することもできなかった。
ヴェルの忠告を無視して、そっと、翅に触れた。声が立ち上がる。
『ベルン、君の気持ちが俺と同じで嬉しかった。だから、俺から離れようとしないで。どんな君でも、俺は君が好きだ』
その、あまりにまっすぐな声に、アナイティスは息を忘れた。
『どんな君でも、俺は君が好きだ』
その言葉が、胸の中で何度も響いた。
その瞬間だった。ヴェルが、光った。机の上の小さな黒い蜘蛛が——金色の光を放って、部屋の中を照らした。その光とともに、不思議な気配が部屋に満ちた。温かくて、古くて、何か懐かしいような——
「なに? これ……?」
やがて、静かに光が消えると、ヴェルは元の黒い蜘蛛に戻っていた。ただ、金色の目が、いつもより深く輝いていた。
「……ヴェル。あなた、一体……?」
ヴェルは答えなかった。ただ静かに、アナイティスの手に脚を乗せた。
◇◇◇
翌朝、出勤しようと、部屋を出たところで思わぬ人物に遭遇した。
アッシュルが、立っていた。
天翅庁の首席翅師が、寮の廊下に。出勤前の慌ただしい時間帯に。
「……ア、アッシュル様? なぜここに」
「少し調べたいことがあった」
「は、はあ」
なんで寮にいるの。というか、首席翅師といるところを他の人に見られたら、大騒ぎになる……!アナイティスは廊下をそっと見渡した。幸い、まだ誰もいない。
「天翅庁の寮に住んでいる女性は、どのぐらいいる」
アナイティスの心配をよそに、アッシュルが淡々と質問する。
「え? 寮の女性ですか? 百人以上いるんじゃないでしょうか。若い職員が多いと思います」
「そうか」
アッシュルが少し考え込むような顔をした。その横顔を見ながら、アナイティスは胸がちくりと痛むのを感じた。アッシュル様が女性を探している。その人が、前に言ってた大事な人、なんだろうか。
「寮に住む女性の名簿はあるか。確かめたいことがある」
そう問うアッシュルの顔が、真っ青なことにアナイティスは、このとき初めて気づいた。
「アッシュル様」
気づいたら声が出ていた。
「顔色が、優れないようですが」
「問題ない」
「でも——」
「問題ないと言っている」
アッシュルが一歩踏み出した瞬間、その体が傾いた。
「アッシュル様!」
アナイティスは咄嗟に駆け寄った。アッシュルが壁に手をついて、なんとか体を支えている。
「大丈夫だ」
「大丈夫じゃないじゃないですか!」
「……少し、魔力を使いすぎた。それだけだ」
声は、かすかに掠れていた。全身が見て分かるほどこわばっている。痛みに耐えているのだろう。眉は歪み、額には汗が浮かんでいた。アナイティスは部屋の扉を開くと、考える間もなく言っていた。
「休んでください。今すぐ」
「必要ない——」
「寝て、ください」
アッシュルが、驚いたように目を細めた。アナイティスは続けた。
「このまま廊下で倒れられたら、私が困ります」
アッシュルは抵抗する気力もない、というように、そのまま寝台へと身体を横たえた。顔が白い。呼吸が浅い。歯を噛みしめて、痛みに耐えているようだった。
つらそうな顔が、アスの声と重なった。
これがアスなら、ほっておけない。
アナイティスは、アッシュルの手をとった。
アッシュルの肩がびくりと震える。
「何を……する気だ」
「わかりません」
アナイティスは正直に答えた。
「でも——ほっておけないから」
アッシュルは、浅い息のなかで少し目を細めた。
お願い。どうか、良くなって。
この人の痛みが、少しでも楽になりますように。
蝶のときみたいに、奇跡が起きますように。
アナイティスの頭の中で、昨夜届いた蝶の声が鳴っていた。
『どんな君でも、俺は君が好きだ』
繋がった手から、わずかに光が生まれた。ほんの数秒。
アッシュルの表情が、少し和らいだ。強張っていた眉間がほぐれ、肩の力が抜けていく。苦しそうだった呼吸が、静かになっていく。やがて、顔に血の気が戻り、全身の力がふっと抜けた。
「アッシュル様?」
「お前の、その力」
アッシュルが、呟いた。
「いったい——」
そこで、言葉が途切れた。
「アッシュル様? アッシュル様!」
アッシュルは、穏やかな顔で眠っていた。さっきまでの苦しそうな表情が、嘘のようだった。
痛みが消えた? 蝶のときと同じ? アナイティスは自分の手のひらを見た。何もしていない。ただ握って、祈っただけだ。なのに——
そのとき。
「ベルン……」
アッシュルの唇が、かすかに動いた。
アナイティスは、その声を聞いた瞬間、動けなくなった。




