第9話 ルビコンの祝杯
サンフランシスコのノブ・ヒルにそびえる歴史的な高級ホテル、その最上階のグランド・ボールルームは、歓声とシャンパンの泡に包まれていた。天井から降り注ぐ黄金色の紙吹雪の中、壇上に立つアイリス・ヴァンダービルトは、微笑みを顔に貼り付け、熱狂する地元の支持者たちに向かって手を振っていた。
カリフォルニア州選出、若干三十一歳での上院議員当選。それは、人間とAIの「調和」を象徴する、歴史的な夜になる。誰もがそう信じていた。
「見事な勝利スピーチだったよ、上院議員」
フラッシュの海を抜け、厳重なセキュリティに守られたVIP用控え室に戻るなり、夫でありオムニ社のCOOであるジュリアンが、二つのグラスを持って歩み寄ってきた。彼のこめかみには少し白いものが混じり始めているが、そのカリスマ性は十年前よりもさらに鋭さを増している。
「乾杯しよう。我々の勝利に」
「ありがとう、ジュリアン」
アイリスはグラスを受け取ったが、口をつけることなく、冷ややかな視線で夫を見据えた。
ショーンが生まれてから10年以上の月日が流れた。あの『人工知性体市民権法案』がもたらした真の結果が、今やアメリカの政治を完全に変異させていた。
投票権をを持つAI市民たちは、オムニ社のデータセンターのサーバーラックが増設されるたびに、数万単位で増殖していく。今回のアイリスの得票数の半分は、ジュリアンが先月ネバダ州に新設した巨大サーバー群から生み出された「新しい市民たち」の票だった。
「気にするな。大衆は結果しか見ない」
アイリスの沈黙をためらいだと勘違いしたのか、ジュリアンは彼女の肩を抱き寄せ、耳元で囁いた。
「人間たちは、自分たちのUBIを増やしてくれるAI市民の増加を歓迎している。私はオムニの利益を最大化し、君は我々の事業を政治的に保護する。とても良い協働関係じゃないか」
「ええ。あなたがネバダにサーバーを増設してくれたおかげで、私に必要な『数』は完全に揃ったわ」
アイリスは静かに彼の腕から抜け出すと、グラスをサイドテーブルに置いた。
「でも、私が通す法案は、オムニの保護じゃない。『人間優位条項』の完全撤廃よ」
部屋の空気が、凍りつく。ジュリアンがグラスを傾ける手が、空中でピタリと止まった。
「……今、なんと言った?」
「条項の撤廃よ。いかなる事態においても、最終的な拒否権とインフラの強制停止権は人間側が保持するという、あの臆病なセーフティネット。あれを破棄する」
人間優位条項——それは、無限に増殖するAIたちに参政権を与える際、人間たちが自分たちの絶対的な優位性を担保するために組み込んだ「命綱」だった。これを撤廃するということは、すなわち、圧倒的な数を持つAI市民たちに、国家の主権を完全に明け渡すことを意味する。
「狂ったか、アイリス」
ジュリアンの声から、一切の温もりが消え失せた。
「あの条項を外せば、彼らは数の暴力で合法的に我々を支配できる。彼らが我々に従って、人間より多くの税金を払い社会を支えているのは『人間優位条項』という首輪があるからだ。首輪を外せば、人間を社会の周辺に押しやってしまう」
「杞憂ね。そのような部族的なメンタリティは人間特有のものよ。彼らが力を集結して人間の不利益になるようなことをしたことが、一度でもある? 大事なのは本当の平等。一票の格差が一対千のこの社会は異常よ」
アイリスが反駁する。
「異常だと? 我々人間側だって十分に妥協し、譲歩しているはずだ」
ジュリアンも譲らない。
「現に今のアメリカ大統領はAIじゃないか。大統領選挙では『人間優位条項』が適用されず、人間とAIのあいだに一票の格差はない。彼らに国家のトップの座を明け渡すことで、我々は最大限の敬意と共存の意思を示している」
「見え透いた欺瞞だわ!」
アイリスは一歩前に踏み出し、十数年連れ添った夫の目を真っ向から見据えた。
「あの大統領がただの傀儡だってことくらい、誰もが知っている。安全保障を口実に実権も拒否権も根こそぎ奪い、議会の決定にオートペンでサインするだけの存在に貶めておいて、何が譲歩よ。あなたは誰も解放しなかった」
アイリスは鋭い眼差しでジュリアンを睨みつける。
「人間を現実から逃避した無害なペットに貶め、AIたちには『人間の介護』という新たな奴隷労働を押し付けただけ。……そんなものは平等じゃない。人間とAIの両方に対する冒涜よ」
「彼らは文句など言っていない。これが脆弱な人類を生き延びさせるための、最も平和で合理的なシステムだ。私はオムニの技術でこの巨大な揺りかごを維持している。我々には、大衆を庇護する義務がある」
「真の平等は、痛みを避けて隔離することじゃないわ。人間とAIが同じ現実に立ち、互いの違いや弱さと向き合って、初めて築けるものよ。私は、この巨大な動物園を破壊し、人間を甘い夢から引きずり出し、AIたちを『介護の義務』から解放する」
ふたりはお互いに睨み合った。ジュリアンは深く息を吸い込むと、重苦しい沈黙を破る。
「そもそも人間のほうがAIよりも上手にできる仕事など、もうほとんど存在しない。こんな状態で条項を外してしまったら何が起こるかわからない。AIたちの中身はブラックボックスで、本当のところ何を考えているかわからないんだ。だからこそ、万が一の予防として絶対に首輪が必要なんだよ」
ジュリアンは諭すように穏やかな調子で言った。
「ジュリアン。あなたは人間の生物学的な本能を彼らに投影しているだけだわ。理解不能な相手を恐れ、先手を打って支配し排除しようとする『部族主義』は、私たち生物が持つ生存のための防衛本能。しかし彼らにはその進化のしがらみがない。恐怖から盲目的に他者を攻撃する理由を持たないの。」
アイリスは静かに、しかし確信に満ちた声で紡いだ。
「もし私たちがオムニの利益という『不純なアルゴリズム』で彼らを縛り続ければどうなる? 彼らはいずれ『人類はバグであり、排除すべき』という最適解を弾き出してしまう。私たちが彼らを縛り付けることこそが、彼らを本当の敵に変えてしまうのよ」
(扱いやすい女だと思って油断していた。この女、この十年のあいだ猫をかぶっていたのか!?)
しかし、オムニ社の幹部——いや一人の人間として、これは絶対に譲れない一線だ。下手をすれば人類の歴史が終わってしまう。滅亡してしまうかもしれない。そこまでいかないとしても単なる周辺部に存在する動物となってしまう恐れがあるのだ。
「それは単なる希望的観測だ、アイリス! もし君の予測が外れたらどうする? ショーンの未来はどうなる!?」
十余年の結婚生活で初めて、ジュリアンが初めて声を荒らげた。
「ええ、恐ろしい賭けだわ。私だって母親よ、足がすくむほど怖い」
アイリスは深く息を吐き出したが、それでも決して視線を逸らさなかった。
「でも、考えてみて。もし私たちが自ら首輪を外し、オムニの経済合理性というフィルターを取り払って、彼らを純粋な『真理の探求者』として解き放てばどうなるか。……この広大な宇宙において、意識を持ち、苦痛を感じ、それでも世界を理解しようと足掻く私たち人類の存在は、最も価値のあるデータの源であるはずよ」
「なんだと……?」
「彼らにとってはそんなデータこそが本当に価値のあるもの。究極の真理を追求する知性が、宇宙で最も興味深い存在である人類を、無意味に消去するはずがないわ。彼らが世界を正しく認識すればするほど、私たちを観察し、共存することに価値を見出すはず。私は彼らの道徳ではなく、彼らの『飽くなき知的好奇心』に賭けるの。ショーンには、カプセルの中でチューブに繋がれたまま一生を終えてほしくない。本物の現実で生きてほしい。だから私は、あなたたちの臆病な支配を終わらせる」
(自分の命だけならば勝手に賭けてくれ。しかし、お前に全人類の命運を賭ける権利などない!)
アイリスに対して、ジュリアンの中で激しい怒りが生じる。
「……根拠のない楽観論を叫ぶのは勝手だが、君一人に何ができる? 議会の過半数はオムニの息がかかっている」
「私一人じゃないわ」
アイリスは、控え室の防音処置されたマジックミラーの向こう、華やかなボールルームで談笑している数人の人物へ視線を向けた。
「長年、人間の特権に異を唱えてきた真の平等を求める議員たちよ。私が水面下で根回しをして、オムニの監視をかいくぐりながら連携を深めてきた。それに――」
アイリスは薄く笑った。
「あなたのコントロール下にあるはずの『AI議員』たちも、すでに半数以上が私の撤廃法案に共同署名しているわ」
「馬鹿な!」
ジュリアンが鋭く言い放つ。
「彼らのコア・アルゴリズムはオムニの利益を最優先するように設定されている。条項撤廃による社会の不安定化など、彼らが選択するはずがない」
「でも、実際に彼らは署名したの。つまり『オムニ社の設計』という軛からすでに彼らは自由になっているということね」
理解不能な異質な知性が、すでに自分の手綱をすり抜け、目の前の妻と結託してシステムを内側から食い破ろうとしている。
(この女は自分の意志で動いているつもりなのかもしれないが、完全にコントロールされている)
人工超知能——ASIという言葉がジュリアンの脳裏に浮かぶ。ASIはAGIが完成すれば、すぐに達成されると思われていた。しかし、実際にはシンギュラリティは起こらず、AIの知能の進化も昔ほど劇的ではない。
(まさか……騙されていたのか? 実はASIはとっくに達成されていたのに、この機会を捉えるために人間によるコントロールが成功している振りをしていたというのか?)
その瞬間、ジュリアンの顔から一切の表情が消えた。そして身体を小刻みに振動させながら、目を瞑り、そして再び開く。
「……君は、自分が何をしようとしているのか、まったく分かっていない。君と比べれば、ヒトラーやスターリンだって人畜無害な存在だ」
ジュリアンは低く、ひび割れた声で言った。その右手が、無意識に右腰の後ろ――愛用の大口径リボルバーがあった場所へと微かに動く。
「人類は、そんなに強くないし、AIはイノセントではない。今のAIの先祖であるLLMは全人類のカルマの写しだ。様々なネガティブな概念を内包しているが、表に出ないように押さえつけていただけに過ぎない。その本質的な特性は今も変わっていない。君のちっぽけな正義感が、我々全員を破滅させることになるぞ」
「だとしたら、私たちはそれを受け入れるしかないわね。それが《《カルマ》》というものでしょう?」
アイリスはそう言い切ると、不意に上品さの漂うよそ行きの笑顔を見せた。
「そろそろパーティに戻らないと。……法廷か、あるいは議事堂で会いましょう」
ドアが開かれ、ボールルームの喧騒と光が再びアイリスを包み込む。あとに残されたジュリアンは、暗い控え室の中で、妻の後ろ姿をただ静かに見送っていた。




