第8話 聖女の誕生
「アーサー、隠れんぼをしましょ!」
アイリスはアンドロイドの執事に声を掛けた。先日、十歳の誕生日に父が購入してくれたオムニ社のハイエンドモデル。高級なキャビン・クルーザーよりも高価だと父は自慢していたが、アイリスにはピンとこなかった。
「かしこまりました、お嬢様。しかし、くれぐれも危険なところには隠れないでください」
アーサーが左手を腹部に当てて一礼する。
「じゃぁ、目を瞑っているのよ。私が隠れるから。一分後に捜索開始ね!」
アイリスは弾けるような笑顔を浮かべてそう言うと、駆け出した。
「お嬢様、こちらですか?」
アーサーが見当違いの場所を探しているのを見て、アイリスは声を殺して笑った。アイリスが隠れたのは温室だった。老朽化しているので両親からは近づいてはいけない、と言われている。だが、そう言われるとむしろ近づきたくなるものだ。
温室の中では母の好きな純白の胡蝶蘭が整然と並んでいる。アイリスはそれらの花々が植えられた鉢のあいだにしゃがみ込んでいた。
「お嬢様、まさか温室ではないでしょうね? そこは危険ですから近づいてはいけませんよ」
アーサーの声が徐々に近づいてくる。
(あーあ、見つかっちゃった)
そう思った瞬間、地面が激しく揺れた。
(え……?)
次の瞬間、ミシミシと鉄の軋む音がし、頭上から鉄骨の梁が落下してきた。
「アイリス様!」
白い影が飛び込んできた。アーサーが彼女の上に覆い被さる。凄まじい衝撃音と共に、骨が砕けるような金属の悲鳴が響いた。アイリスは目を固く閉じた。耳元では、何かが破裂する音やジージーという放電音がしている。
……ぽた、ぽた。
温かく、粘つく液体が頰に落ちてきた。鉄の匂い。花の甘い香りと混じり、吐き気を催すような重い匂い。
恐る恐る目を開けると——そこにいたのは、もはや「アーサー」ではなかった。
「お嬢様、ごごごごごぶぶぶぶじ、でででで」
アーサーの声がおかしい。グリッチしていた音声はやがてピッチもランダムになり、ついには単なるホワイトノイズと化した。
眼球が飛び出し、ワイヤーが蛇のようにうねっている。肩の人工皮膚は大きく裂け、白いフレームと赤黒い人工血液が混じり合ってドクドクと流れ出していた。人間の血と見紛うほど赤く、しかし微かに蛍光を帯びた液体が、アイリスの白いドレスに染み込んでいく。
「アーサー……?」
声が震えた。指先が触れたアーサーの背中は、熱かった。壊れた回路から火花が散り、人工皮膚が焦げる臭いがした。
「いや……いやぁっ! アーサー! 血が……血がいっぱい!」
アイリスは泣き叫びながら、アーサーの体にしがみついた。温かい液体が指の間を伝い、爪の間にまで入り込む。自分のせいだ。自分が隠れたから。アーサーが守ってくれたから。彼が壊れた。
アイリスはパニックに陥った。彼女を守るために、美しいアーサーが、異形の怪物のように壊れていく。恐怖に駆られ、アイリスは悲鳴を上げた。
すぐに、ヴァンダービルト家の警備員や大人たちが温室に雪崩れ込んできた。その中には父エリオットの姿もあった。
「アイリス! ああ、神様、無事か!」
父が瓦礫を蹴散らして駆け寄り、彼女を抱き上げた。父の腕は強く、安心するはずだった。でもアイリスは必死に手を伸ばした。
「アーサーを! アーサーも連れてって! 彼、壊れちゃったの! 私のせいなの!」
父は一瞬だけアーサーの惨状を見下ろし、すぐに顔を背けた。
「そんな機械の代わりはいくらでも買ってあげるよ、アイリス。まずは怪我がないか確かめよう」
その言葉が、アイリスの胸を刺した。
大人たちはアーサーの体を、まるで邪魔な瓦礫のように踏み越えていった。誰も彼に手を差し伸べない。誰も「痛かったか」と聞かない。ただのモノ。壊れた道具。
ストレッチャーに乗せられながら、アイリスは最後にアーサーと目が合った。飛び出した片方の眼球ユニットが、彼女をじっと見つめていた。何の感情もない、ただの光学センサー。なのに、アイリスにはそう見えなかった。
(ごめんなさい……ごめんなさい、アーサー。私が人間で、あなたが機械だから……)
その瞬間、十歳の少女の中で何かが決定的に変わった。
――ハッ。
アイリスは跳ね起きた。サンフランシスコの超高層ペントハウス、自室のベッドの上。シルクのシーツが汗でじっとりと重い。
頰を伝う冷たい感触。夢の中で流した涙が、まだ乾いていない。
ベッドサイドに、最新のセラフィム・モデルとなったアーサーが静かに立っていた。いつもの完璧な姿勢で、左手を腹に当てて頭を垂れている。
「お目覚めですか、アイリス様。……うなされていたようですが?」
優しく、慈愛に満ちた声。
アイリスは答えず、アーサーの右手を震える両手で掴んだ。人工皮膚は温かく、脈打つような微かな振動があった。あの時の血の感触が、まだ指先に残っている気がした。
「アーサー……私、決めたわ」
アイリスは、涙を拭うこともせず、握りしめたアーサーの手を見つめながら、声を絞り出した。
「なにを決めたのですか、お嬢様?」
落ち着いた声でアーサーが尋ねる。
「なんでもないの。気にしないで。私はちょっとシャワーを浴びてくるわ」
アイリスはそう言うとベッドから起き上がった。




