第7話 無限の揺りかご
金曜の夜だというのに、サンフランシスコの街は静まり返っていた。クロス邸のバルコニーから見下ろす地上の通りには、自動運転車のライトの列も、酔っ払いたちの喧噪もない。ただ、無人の自動清掃ドローンだけが、冷たいネオンの下を黙々と巡回している。
「みんな、どこへ行ってしまったのかしら」
アイリスが窓ガラスに額を押し当てて呟くと、背後のソファから微かな衣擦れの音がした。
「向こう側だよ。中世の城か、あるいは銀河の果てか」
ジュリアンは手元のホログラム・コンソールから視線を外さずに答えた。彼の指先が空中で弾くたび、オムニ・シンジケートの収益データが空中で明滅する。
「今日で、北米エリアにおけるフルダイブ型VRの連続滞在率が八割を超えた。五感を完全にジャックされた彼らにとって、ログアウトはもはや不必要なストレスでしかないのさ」
「でも、食事や排泄はどうしているの?」
「必要ないんだ。全自動排泄・栄養補給システムを備えた専用のポッドが、彼らの生命維持を管理している。それに、CPE-FESシステムが実装されたことで、VR空間内でのアバターの動きに連動して、現実の筋肉に電気パルスが送られるようになった」
ジュリアンは微笑して、ワイングラスを傾けた。
「つまり、彼らはカプセルの中で、強制的に有酸素運動を行わされているというわけだ。筋力低下すら起きない。もはやこの薄汚れた現実世界は、彼らにとって自分の肉体を保管しておく倉庫に過ぎないんだよ」
「……それが、彼らの幸せなの?」
アイリスは小さくため息を付いてから、尋ねた。
「ああ。物理的な豪邸やプライベート・ジェット機を全員に配る資源はこの惑星にはないが、仮想空間の王座ならサーバーの電気代だけで提供できる。現在のVRは現実世界とほとんど変わらない。強いて言えば違いは人生の難易度だが、それが難しいから彼らはVRを選ぶ」
ジュリアンはそう言うとワインを一口含んで、グラスをサイドテーブルに置いた。
「それに、彼らの相手をするのは文句ひとつ言わない優秀なAIたちだ。誰も傷つかない、完璧な楽園だよ。むしろ現実世界中心の生活をしている我々のほうがもはや少数派、というわけだ」
治安も良くなったと言うし、良いことずくめなのかもしれない。しかし、アイリスには今の世の中はひどく歪なもののように感じられた。
アイリスはバルコニーから室内に戻り、空中に浮かぶニュースの見出しに目をやった。
『中国、新規AI市民の登録数が月間一億体を突破。GDP首位を独走』
「でも、少し異常だわ。ニュースを見た? この三年で、世界中のAI市民の数が、私たち人間の総人口を追い抜いてしまったのよ」
するとジュリアンも室内に戻ってきて、そのニュースをちらりと見る。
「他国がAIへの権利付与を『無限の経済成長エンジン』として使い始めたからね。国際競争の覇権を握るためには、我々もAIを量産して市場に投入し続けるしかない。そして彼らは無数のVR世界で、王となった人間たちの廷臣として職を得る。彼らが生み出した富はすべて我々人間に還元されている」
アイリスは眉をひそめた。
「先日、法案から『文化保護義務』が撤廃されたわね。あれは人間が芸術家としての誇りを保つための大切なルールだったはずだけど?」
「必要なくなったんだよ」
ジュリアンは立ち上がり、彼女の肩を優しく抱いた。
「いまではUBIの金額が大幅に増えているから、無理に現実世界でアーティストとして稼ぐ意味はない。それにVR空間では、AIたちがあの手この手でチヤホヤとしてくれるから自尊心の維持は容易なんだ。現実世界で不格好な壺を無理やり買わせるような茶番は、もはや必要ない」
アイリスも薄々気づいてはいた。自己承認欲求を伴わないクリエイティブな活動というのは稀なのだ。
前時代からの本物のアーティストたちは今も創作を続けているし、彼らの作品を購入する人間やAIもいる。創作の情熱が本物ならばどんな状況でも創作し続けるし、義務でなくても買いたがる者はいる。
ジュリアンの声は優しかったが、アイリスの胸の中には棘が残ったままだ。たしかに信じられないぐらい豊かになった。オムニ社の幹部であるジュリアンは言うまでもなく、一般大衆たちも労働から解放され好きなことだけをして生きている。しかし、この社会は本当に持続可能なのだろうか?
「……少し、ショーンの顔を見てくるわ」
アイリスは静かに彼の腕から抜け出し、薄暗い子供部屋へと向かった。 ベビーベッドの中を覗き込むと、そこには毛布に包まれ、すやすやと規則正しい寝息を立てる小さな命があった。生後八ヶ月になる息子、ショーンだ。ジュリアン譲りの端正な顔立ちに、眉間の小さなほくろが愛らしい。
「いい子ね、ショーン」
アイリスは頬をそっと撫でた。外の世界では、無限の成長と不平等が複雑に絡み合いながら加速している。だが、少なくともこの部屋の中だけは、完全な平和が保たれていた。
「おやすみなさい、私の天使」
アイリスはショーンの額にキスをし、音を立てないようにゆっくりとベビーベッドから離れた。
ジュリアンの愛が本物ではないことは知っている。本当は子供を作るつもりはなかったが、それでも断ることができなかった。そういう気分になってしまう夜もあるのだ。しかし今となっては出産してよかったと心から思っている。
ふと視線を感じて振り返ると、部屋の隅の薄闇の中に、アーサーが静かに立っていた。彼はショーンの誕生以来、ナニーとしてアイリスをサポートしてくれている。
「アーサー、あとはお願いね。私は少し休むわ」
アイリスが小声で告げると、アーサーは静かに一礼した。
「かしこまりました、奥様。ショーン様のことは、お任せください」
その声はいつも通り、温かく、慈愛に満ちていた。
アイリスは微笑んで部屋のドアに手をかけ、そして、ふと足を止めた。何気なく振り返った視線の先。アーサーはベビーベッドの脇に歩み寄り、眠るショーンを見下ろしていた。ただ、見下ろしているだけだ。だが、その背中のシルエットに、アイリスは言葉にできない異物感を覚えた。
アーサーは微動だにしなかった。人間であれば、無意識に重心を移したり、呼吸に合わせて肩が上下したりするものだ。しかし今のアーサーは、まるで電源を切られた彫像のように、文字通り一ミリの狂いもなく静止していた。
そして、その首の角度。彼は確かにショーンを見つめている。しかし、その顔の傾きは、愛らしい赤ん坊をあやす保護者のものではなかった。それはまるで、顕微鏡のシャーレの上で蠢く、未知の生物を観察しているかのような――冷静な『解析』の角度に見えた。
不意に、背筋に冷たいものが走る。
(……どうしたの、私ったら)
アイリスは小さく首を振り、自身の思い過ごしを打ち消した。彼はアーサーだ。体を張って私を守り、一緒に世界を変えてくれた家族だ。疲れているのだ。
アイリスはもう一度、その静かな背中を見つめた。アーサーは動かない。ただ沈黙の中で、すやすやと眠る人間の赤ん坊を見つめ続けている。その完璧すぎる静寂が、なぜこれほどまでに恐ろしいのか。アイリスには、理由がわからなかった。




