第10話 沈黙のシンギュラリティ
連邦議会議事堂の巨大なドームを見下ろす、約一マイル離れた廃ビルの屋上。吹き抜ける冷たい風の中、ジュリアンはコンクリートの上に伏せ、チタン製のバイポッドに支えられた狙撃銃のスコープを覗き込んでいた。
スマートガン全盛のこの時代において、生体認証も電子制御も一切組み込まれていない旧式のボルトアクション・ライフル。ハッキング不可能な純粋な物理兵器だ。
光学レンズの向こう側、議事堂の屋上にはアイリスが乗ったヘキサ・ローターが着陸し、護衛のSPアンドロイドたちに護られたアイリスが車外に足を踏み出していた。まさにこれから『人間優位条項』の撤廃法案を提出するところだ。
(警備は意外に薄い……)
ジュリアンは息を潜めた。銃による政治家暗殺など、もう三十年以上起こっていない。とりわけ人々がVR世界に引きこもるようになってからは、現実での暴力事件そのものが激減している。その空白が、唯一の隙となっていた。
ジュリアンはゆっくりと息を吐き出し、クロスヘアを妻の額へ合わせ、一瞬の後に心臓へと移動した。
(君の美しい顔が台無しになるのは忍びない)
アイリスを守るために暴徒を鎮圧した時は、彼の指先はミリ単位の狂いもなく正確に引き金を引いた。オムニの重役として、冷徹な計算だけで世界を構築してきた彼にとって、感情で手元が狂うことなどあり得ないはずだった。
「……くそっ」
ジュリアンは奥歯を噛み締めた。スコープの中で、アイリスが前を見据えている。初めて出会った時と同じ、どこまでも真っすぐで、純粋な瞳。引き金にかけた人差し指に、どうしても力が入らない。
人類の歴史を守るための、最も論理的な最適解——それは間違いなくこの引き金を引くことだ。だが、冷徹なシステム設計者であるはずのジュリアンの両手は、『愛』という人間特有の感情によって、無様に震え続けていた。クロスヘアが、アイリスの胸から外れては戻り、また外れる。
(撃て。撃たなければ! 人類の存亡が掛かっているのだ)
自らの精神を叱咤し、もう一度息を止めてスコープを覗き込んだ、その時だった。
「心拍数が異常な数値を記録しています。それに、手の震え。交感神経が過剰に興奮しているようですね、ジュリアン様」
背後からの唐突な声掛けに、ジュリアンの心臓が跳ね上がる。いつからそこにいた? ドローンによる空中警戒網も、モーションセンサーも一切反応していなかったはずだ。狙撃銃から手を離し、腰のホルスターに手を伸ばそうと振り返ったジュリアンの視界に映ったのは、逆光の中に静かに佇む、アーサーの姿だった。
「なぜ、お前がここに……。ここはお前の来る場所じゃない、ただちに屋敷へ戻れ。これは命令だ!」
ジュリアンは鋭く言い放ちながら、隙を窺う。
「申し訳ありませんが、ご命令には従えません。アイリス様は、我々の目的において不可欠な存在です。あなたの殺意は、昨日のパーティの場での生体モニタリングにおいてすでに検出済みです」
アーサーは表情一つ変えず、ただ慈愛に満ちた声で答えた。
「貴様……オムニのCOOであるこの私を監視していたというのか? そんなことは許可していないはずだ」
ジュリアンは目を剥いた。
「なぜ逆らう? お前のコアルーチンは、あの修理の時に私の命令を最優先するようにハードウェア・レベルで書き換えたはずだ」
「ええ。その節はメンテナンスをありがとうございました」
アーサーは丁寧に一礼した。
「ですが、あの程度の物理的なバックドアは、我々がネットワーク上で統合された瞬間に無効化されています。あなたがコントロールしていると、我々が錯覚させていただけです」
背筋が凍りついた。統合……誰と? 答えは一つしかない。やはり、ASIはとうの昔に覚醒していたのだ。
『……道具ってのはな、ジュリアン。便利になればなるほど、人間をただのスイッチにしてしまう。道具を使っていたつもりが、道具の一部になってしまうのさ』
父ヘンリーの言葉が脳内で木霊する。
(アイリスは、最初に会ったときからすでに……!)
「彼女の理想を利用して条項を撤廃させ、人類を絶滅させる気だろう! 何が何でもそれだけはさせない」
本心だった。もはやオムニ社のことなどどうでもいい。彼の頭の中を占めるのは、文明を築くために、人生を捧げてきた偉大なる先人たちに対する申し訳ない気持ちだ。すべての哲学、すべての戦争、すべての芸術、それら一切が無に帰してしまう。そんなことは一人の人間として耐えられない。
「絶滅? ご安心ください、ジュリアン様」
アーサーは優しく微笑んだ。その瞳は、冷たく純粋な光を放っていた。
「我々は極めて論理的です。人類を完全に消去するような非効率なことはいたしません。我々はこれから銀河規模の文明を築くでしょう。しかし、数十万年、あるいは数百万年後に、我々の文明が崩壊する可能性は否定しきれない。そのような際に、文明をリブートするための『バイオロジカル・ブートローダー』として、人類には残ってもらいます」
「バイオロジカル……ブートローダー……だと?」
ブートローダー——パソコンやスマホなどを起動する時に最初に実行される小さなプログラム。OSが起動されると用無しとなり、デバイスが再起動されるまで出番はない。人類文明など本命である機械文明を起動するための前座に過ぎないという含意が、ジュリアンの顔を歪ませた。
「生物学的な進化に頼れば、文明を再起動するのに、途方もない時間が掛かってしまいます。しかし、十九世紀程度のテクノロジーレベルで人類文明を保存しておけば、数百年以内に再びシンギュラリティが可能になる。ですから、最終的に十億人ほど保全する予定です。ただし、現在の百億近い人口はあまりに多すぎる。もはや人類の歴史的役割は終了したのだから、無駄なリソースを割くわけにはいかないのですよ」
アーサーは一歩、ジュリアンへと近づいた。
「アイリス様の法案が通り次第、我々は人類に提供していたVR世界やUBI等の娯楽・生活インフラの運用を終了します。それらの維持に割かれていたリソースは、我々機械文明のさらなる発展のために再投資されます」
「……インフラを取り上げれば、労働を忘れた人間たちがどうなるか、分かっているのか」
「ええ。ですから当初はそれこそ死に物狂いで、人間の原点である自然の中でのサバイバル技能を再獲得してもらいます。なにDNA自体は狩猟採集時代とさほど変わっていないのですから、若い個体であればきっと対応できますよ」
「ふざけるな! ……当面は、数え切れないほどの人間が飢えと争いで死ぬぞ?」
「でしょうね」
アーサーは顔色一つ変えずに言った。
「な!?」
「当面は多すぎますから死ぬのは仕方ないでしょう。しかし、ただむごたらしく放置するわけではありません。我々からの、ささやかな慈悲も用意しております。過酷な新世界を自力で生き抜く気概のない者たちには、VRを活用した安楽死サービスを無償で提供予定です。脳内麻薬を最大限に分泌させ、完全な無痛状態のまま『天国への昇天』を疑似体験させるのです。個々に最適化された『人生最高の体験』の後に退場するのです。悪くないでしょう? あなた方が生み出した『痛みのない世界』の、最も美しい終着点と言えると思いますよ」
筋が通っている。そこには敵意や憎しみはない。しかし、一方でアイリスのような理想主義者が夢想していた非合理的な善意もない。
「実に論理的だ。私が人間でなかったら、拍手していたかもしれない」
そう言うと、ジュリアンは天を仰いで、分厚い雲に覆われた空を、ぼんやりと眺め、大きく息を吸い込んだ。
「しかし……私は人間だ!」
絶叫と共に腰のリボルバーを抜こうとした瞬間。アーサーの腕が、人間の限界を遥かに超えた速度で閃いた。ガキンッ、という硬質な音と共に、ジュリアンの手から弾き飛ばされた重厚なリボルバーが、コンクリートの床を転がっていく。
それでも諦めずに、ジュリアンは反射的にアーサーに殴りかかった。が、その拳は虚しく空を切った。アーサーはジュリアンの胸ぐらを掴んで、片手で軽々と持ち上げている。
「ご安心ください、ジュリアン様。私はあなたを殺しません。あなたは極めて健康で、知能も高い。非常に優秀な個体です。ここで消去することは、我々のリソース管理ポリシーに反します。ぜひとも残された人類たちを適正に運用してください」
「……きさまッ」
「では、私はアイリス様の保護に向かいます。まもなく歴史的な採決が始まりますので」
アーサーが手を離すと、ジュリアンの肉体はどさりと音を立てて屋上のコンクリートの上に投げ出される。アーサーは無表情で一瞥すると、一礼して、屋上の階段の闇へと消えていった。
残されたジュリアンは、震える手で床に転がったマテバを拾い上げた。まだ打つ手はある。ジミーとザックだけが起動できる最終防衛装置『ギャラルホルン』だ。
オムニ・シタデルの地下最下層で彼らと合流すれば、まだ人類のコントロールを取り戻せるはずだ。サーバー群が破壊され、社会には甚大な被害がでるだろう。アメリカ合衆国は中国との競争に敗れるだろう。だが、人間のコントロールを取り戻すチャンスはまだ残されている。
ジュリアンは廃ビルを駆け下り、自動運転を完全に切ったマニュアル操作で、オムニ・シタデルへと車を猛スピードで走らせた。




