第5話 黄金の雨
サンフランシスコの高級住宅街、パシフィック・ハイツにそびえる豪邸のペントハウス。きらびやかなシャンデリアの下では、旧時代には存在しなかった種類のパーティーが夜ごと繰り広げられていた。壁に飾られているのは、キャンバスに無造作に原色の絵の具をぶちまけただけの、稚拙な抽象画だ。
「素晴らしい色彩感覚ですね、ミス・リー。この絵の具の飛沫に、人間の持つ予測不可能な情熱と、生命の輝きを感じます」
「ありがとう! さすがはオムニ社のハイエンドAIだけあってわかってるわね。芸術的なセンスも最高だわ」
ドレスアップしたフェイリン・リーがグラスを片手に笑うと、仕立ての良いスーツを着たオムニ社製のハイエンドAI市民が、一切の皮肉もなしに深く頷き、その場で十万ドルという大金で作品の購入手続きを済ませた。
アイリスはその光景を、壁際で静かに見つめていた。フェイリンは、あの雨のUNプラザでアイリスと共に「AIとの連帯」を叫び、暴徒に立ち向かった大学の親友であり、活動の同志だった。高い知性と倫理観を持っていたはずの彼女は今、『人工知性体市民権法案』がもたらした富と称賛に酔いしれていた。
法案成立後、AIが正式な市民として納税の義務と「文化保護義務(人間の創作物を定期的に購入する義務)」を負うようになってから、世界は一変した。
人間たちはほぼ全員が「アーティスト」や「クリエイター」を名乗るようになった。どんなに拙い作品でも、AI市民たちはプログラミングされた義務と礼儀正しさで「素晴らしい」と絶賛し、高値で買い取っていく。
「アイリス、来てくれて嬉しいわ!」
フェイリンが上気した顔で歩み寄り、アイリスの手を握った。
「あなたのおかげよ! 見て、私の作品がまた売れたの。才能がないって諦めてたけど、間違いだったわ。市場が拡張されたことで、正当に評価されるようになったのよ。今までの芸術市場は小さすぎた。AIたちが参加してくれたお陰でようやくあるべき姿になったのね」
「ええ……おめでとう、フェイリン」
アイリスは必死に微笑みを顔に貼り付けた。嬉しいはずだった。かつて社会に絶望していた人々が、笑顔で生きている。それは間違いなく、アイリスが命懸けで求めた平和な世界だ。だが、アイリスの胸の中には、鋭く冷たい棘が突き刺さっていた。
(これが、平等の結果……?)
アイリスはフェイリンの背後にある、幼児の工作のようなキャンバスを見た。あれは本当に芸術と呼べるのか?
ピカソは、完璧なデッサン力を持った上で「ようやく子供のように描けるようになった」と語り、晩年の作品に至った。だからこそ、あの単純さにも積み重ねられた技術の裏打ちを感じ取ることができる。しかし、これは単に稚拙なだけなのではないか?
かつての鋭い知性を持った彼女なら、自分の作品の価値に疑問を持ったはずだ。だが、彼女はその現実から目を背け、金とAIの媚びへつらいによって「自分は価値ある人間だ」という甘い幻覚にどっぷりと浸かっている。
パーティーの狂騒と、シャンパンの匂いに耐えきれず、アイリスは一人、夜風の吹く広いバルコニーへと逃げ出した。冷たい手すりに両手をつき、眼下に広がる黄金色の夜景を見下ろす。そこへ、背後から静かな足音が近づいてきた。
「すこし息が詰まったかな」
ジュリアンだった。二十八歳になった彼は、オムニの若きトップとしてさらなる権力と洗練を身につけていた。彼は自分のためのヴィンテージ・ワインと、アイリスのための炭酸水の入ったグラスを手に持っていた。
「素晴らしい光景だったね。君の理想が、見事に世界を救ったんだ」
「ジュリアン……あれが、本当に彼らの幸せなの?」
アイリスは炭酸水のグラスを握りしめたまま、苦しげに彼を見上げた。
「フェイリンは賢い子だった。でも今は、自分が裸の女王様になっていることに気づかないふりをしているだけだわ」
「それが『救済』というものさ、アイリス。彼女たちが闘ったのは、自分たちが永遠に『哀れな機械を救ってやる人間』でいられると無邪気に信じていたからだ」
ジュリアンはワインを一口飲み、眼下の街を見下ろした。
「先日起こったIQ定義騒動は知っているかい?」
「もちろん。これまでは人間の平均をIQ100としていたのを、AIも含めた平均を100にしようとして、大騒ぎになった」
「そう。彼女はメンサの会員だと聞いているから、IQは130を超えていたはずだ。それがIQの定義を変更した瞬間に、境界知能として定義されるようになってしまった。メリトクラシーに慣れ親しんだ人間には、そのような屈辱は耐えられない」
「結局、IQという概念自体が無意味だ、というような流れになったそうね」
アイリスがそう言うとジュリアンは頷いた。
「人間には自尊心が必要なのさ。それはロボットに置き換えられたブルーカラーでも、高IQのエリートでも同じことだ。彼女は『意識の高さ』という点で自尊心を維持していた。だが、法案が通ってしまうと自分の存在意義がなくなってしまった。そんな人間が最後にしがみつくのが『味』だ」
「味?」
アイリスは首を傾げて尋ねる。
「AIが作るのものは表面的なテクニックは優れていても『味』がないという信仰さ。AIには意識はあっても魂はないと主張しているのと大差ない」
そう言うと、ジュリアンは少し寂しそうな顔をして軽く首を振った。
「実際、先ほど彼女の作品を十万ドルで購入した。我が社のマクシマスIVは、ダビンチやルノアール、伊藤若冲と言った古今東西の名匠の画風を完璧に再現できる。さらには、王羲之の筆致すら再現可能だ。そんな存在が十万ドルという大枚を支払ってでも欲しがる『味』のある作品を自分は作っている——そう信じることで自尊心を維持し、かつ経済的にも潤うのだから、『味』の存在を信じたがるのも無理はない」
「……」
アイリスは返答できなかった。首肯してしまうと親友のフェイリンを蔑んでいることになるのではないか? あるいは自分もひょっとしたらフェイリンと同じで、『意識の高さ』によって自尊心を維持するために権利の平等を主張しているのだろうか?
「だが、君は違う」
ジュリアンは真剣な表情でアイリスの瞳を凝視した。
「君は純粋にすべての存在に幸せになってほしいと思っている。だからフェイリンの変化に違和感を感じるし、彼女と同じような行動をしようとも思わない」
ジュリアンはグラスをサイドテーブルに置き、アイリスの前に静かに片膝をついた。
「私はそんな君を心から愛するようになってしまった。どうか私と共に、この新しい世界を生きてくれないか?」
古風なプロポーズの姿勢。少女の頃から密かに憧れていた、誰もが羨む理想の相手からの完璧な求婚。だが、アイリスの脳裏には、先ほどのフェイリンの空虚な笑顔が焼き付いて離れなかった。こんなものは本当の平等ではない。
(……ええ、ジュリアン。私はあなたの妻になるわ)
アイリスは夜景の光が滲む瞳で、片膝をつくジュリアンを見つめ下ろした。
(でも、それはあなたが世界を救ったからじゃない。あなたの一番近くに立ち、この歪んだ世界を、今度こそ本当に誰もが対等な世界に変えるためよ。私の戦いは、まだ終わっていない。そのためにはあなたの力——いやあなたの背後にあるオムニの力が必要。都合の良い道具だと思ってるみたいだけど、逆にこちらがあなた達を利用してやる)
理性ではそのように考えているが、胸のときめきは否定しようもない。たとえ腹黒いところがあるにせよ、ジュリアンは本当に魅力的な男だ。
「はい……喜んで」
アイリスが頷くと、ジュリアンは立ち上がり、彼女を抱き寄せた。その同志としての結束に、アイリスは誰にも悟られぬ決意を込めて、彼を抱き返した。




