8
石扉をくぐった瞬間、空気が変わった。
祠の中みたいな、冷たく乾いた静けさじゃない。
もっと生ぬるくて、息を吸うたび喉の奥に湿った土と獣臭がまとわりつく。石の光も違っていた。青白いだけじゃない。苔みたいな淡い緑や、赤黒い光まで混じっている。
私は数歩進んで、思わず立ち止まった。
ここは広い、というより、崩れた空間がどこまでも続いているようだった。
もとは石造りの大きな広間だったのだと思う。
今はもう、広間の形だけが死骸みたいに残っていた。折れた柱が床を塞ぎ、その隙間から細い道が奥へ伸びている。何かが何度も通って、石の角を削り、骨を踏み砕き、体の幅だけを残した道だった。
「……なにここ」
『巣窟よ』
ベルザリアが言った。
『ここは下層。人が落ち、魔物が寄り、弱いものから食われる。そうして残ったものが、ここに溜まるのよ。上まではまだ遠いわ』
胸の奥が重くなる。
ここでさえ、まだ途中なのだ。
『でも、上へ行けば人の道に近づくわ』
ベルザリアが続けた。
『中層まで上がれば、人がいる場所に出るわよ』
「中層、ね」
『弱い人間にはそこすら地獄だろうけれど』
私は剣を握り直し、足元の骨を避けながら進んだ。
広場のような場所を抜けようとしたとき、右手の瓦礫の山が動いた。
私はとっさに身を引く。
瓦礫の山から、黒い脚が何本も突き出した。次に、ぬらりとした胴が持ち上がる。巨大なムカデだった。
人の胴くらいの太さがあり、節ごとに赤い光が走っている。頭の両脇には鎌みたいな顎。しかも一匹じゃない。瓦礫の奥で、同じ節の光がいくつも重なっていた。
「うわ、無理……!」
『喚かないで。来るわよ』
「ぞわぞわする!」
先頭の一匹が、石の上を異様な速さで走る。私は横へ跳んだ。直後、さっきまで私がいた場所へ、鎌みたいな顎が突き立った。
速い。
硬い。
気持ち悪い。
『節が一番赤いところを焼きなさい』
「どこ!?」
『頭から三つ目。そこが薄いわ』
私は右手へ熱を流す。赤い線が走る。ムカデの節へ当たった。けれど止まらない。
ムカデが、焦げた節を軋ませながら突っ込んでくる。
避けきれない。
私は握っていた剣を振った。細い刀身が、赤く焼けた節へ食い込み、半分ほど断った。
ムカデが身をよじる。
嫌な金属音みたいな悲鳴が、広場に響いた。
「気持ち悪っ……!」
『感想は、あと』
別の一匹が背後から来る。私は体を沈め、そのまま滑るみたいに抜けた。ベルザリアの長い髪が頬を叩く。右手の熱を、今度は剣へ流すイメージで握り直した。
刀身が赤く縁取られた。
試す。
振る。
節が、今度はあっさり裂けた。
「……できた」
『さすが私の体ね。素人が使っても強いわ』
ベルザリアの声は、どこか満足そうだった。
私はそのまま二匹目を斬り、三匹目は柱の陰へ誘い込んで顎を躱し、露出した節へ赤い線を叩き込んだ。
けれど、終わらなかった。
瓦礫の奥で、また赤い節が光る。その奥にも、また、でた。
それどころではない。石を擦る音が、あちこちから重なった。
「もしかして、まだまだいる感じ……?」
きりがなかった。
『全部殺す必要はないわよ』
「先に言ってよ!」
叫びながら、走り、隙を見て崩れた石段の影へ滑り込む。
ムカデたちはしばらく石を擦る音を立てて探っていたが、やがて別の方角へ散っていった。
肩で息をする。
まだ熱い。剣も手も、体の奥も全部熱い。
『下層はこういう場所よ』
ベルザリアが言った。
『ひとつの強いものが支配しているわけじゃないわ。飢えたものが溜まって、食い合って、境目だけが残るのよ』
私は壁に背を預けたまま、暗闇の奥を見た。瓦礫の陰で何かの目が光り、天井の亀裂からは蝙蝠みたいなものが逆さに揺れている。
遠くでは、犬の遠吠えに似た声と、それを噛み潰すみたいな咆哮が重なった。
たしかに、巣窟だ。
生き物があちこちに、はびこっている。
「それで、どうやって上に行くの」
『こういう場所には、だいたい強いものが通る道があるわ』
「獣道みたいな?」
『ええ。人間が上る道は壊れていても、魔物が通る道は残るわ』
私は顔をしかめた。
「嫌な予感しかしないなぁ」
『いい予感がしたことあるの?』
それを言われると、何も言えない。
私は壁に沿って、比較的新しい爪痕や擦れ跡を探した。
そして見つけた。瓦礫が踏み固められている場所。大きなものが何度も通った細い上り坂。
人が作った場所じゃない。でも、上へ続いている。
その入口のそばに、獣の肉と砕けた頭蓋骨が転がっていた。
まだ新しい。
私は意識的に剣を強く握る。
『この道ね』
ベルザリアが言った。
『ここで食われるのを待っていてもいいけれど』
「行くしかないんでしょ」
『そうね』
私は大きく息を吸った。湿った空気が肺に入る。けれど、その中に乾いた風が混じっていた。
外じゃない。
でも、下じゃない。
剣を構え直し、斜面へ足をかけた。
私はかすかな風を頼りに、進む道を決めた。




