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9

 斜面は見た目よりきつかった。


 瓦礫と土と、何かの骨が混ざった足場は硬い。踏み込むたびに疲労が溜まった。

 けれど、立ち止まっているのは嫌だった。


 私は剣を片手に、もう片方の手で壁を探りながら斜面を上った。


 斜面の途中から、空気が変わった。湿った獣臭の中に、乾いた風が大きく混じる。


 私は足を止め、鼻先を上げた。


「これ、上からだよね」


『ええ。生きている空気だわ』


 ベルザリアの声から、からかう響きが消えていた。


『この道は当たりよ』


 その一言で、気持ちがはやった。


 私は足を動かした。斜面はやがて細い通路へ変わった。両脇の岩肌が迫り、赤い髪がときどきざらついた壁に引っかかった。

 床には獣の爪痕がいくつも刻まれている。ここを通るのは私だけじゃない。どこかで、何かが同じ道を何度も行き来している痕跡があった。


 そう思ったところで、急に視界が揺れた。


「……え」


 足元がぐらりとした。目の前の青白い光が一瞬だけ滲み、肺の奥が熱く軋む。疲労とは違う。もっと内側から、何かが空っぽになっていく感じだった。


『止まりなさい』


 ベルザリアの声が鋭くなった。


「なに、これ」


『力を使ったでしょう』


「使ったけど」


『あれはただの力じゃないの。あなたが雑に振り回したぶん、体の内側も削れているわ』


「それこそ先に言ってよ!」


『言ったところで、聞く余裕はあったの?』


 私は言い返そうとして、息を詰まらせた。


 たぶん、なかったから。


 壁に寄りかかったまま、ゆっくり息を吐いた。体の奥が乾いている。何かを求めて体がざわついていた。


『空になった分は、埋めるしかないわ』


「埋めるって、どうやって」


『食べなさい』


「え?」


『死にたくないなら、食べるしかないわよ』


「食べ物とか持ってないんだけど、もしかして」


『そうね。そこらに落ちてる魔物でも齧りましょう』


「絶対、やだ」


『そんなことを言っている余裕があるなら、まだ平気ね』


 その直後に腹の底がきゅうと縮んだ。今度は完全に空腹に近い感覚だった。

 人間だったころの空腹とは違う。もっと乱暴で、直接的。血の匂いが、いきなり妙に魅力的に思えてしまう。


「……最悪だ」


『そうでしょうね』


 ベルザリアは楽しそうだった。


『体はそういうものよ。力を使えば、埋めないといけないわ』


 私は唇を噛んだ。そうしないと何かが零れそうだった。


 そのとき、通路の先でかさりと音がした。


 顔を上げる。


 薄暗い岩陰から、小さな影がこちらを窺っていた。犬くらいの大きさ。痩せた胴に、やけに長い耳。脚は四本なのに、背中には膜みたいなものが畳まれている。

 蝙蝠と狐を無理やり継ぎ合わせたみたいな、変な生き物だった。


 そいつもこっちを見ている。


 空腹の目で。


『ちょうどいいわ』


「いや、よくない!」


 影はすぐに飛びかかってきた。私は急いで剣を振る。細い体が空中で裂け、岩肌にぶつかって落ちる。温かい液体が一筋、頬へ飛んだ。


 腹の奥がひどく鳴った。


 獣。

 血。

 肉。


 まずい、と思ったときにはもう遅かった。私は剣を投げ捨て、その生き物の死骸へ近づいていた。頭では嫌だと思っているのに、体のほうが先にしゃがみ込む。歯が疼く。


『食べなさい』


「……っ」


『ここから出たいのなら』


 私は震える手で、首元を掴んだ。まだあたたかかった。ありえない。こんなことしたくない。したくないのに、胸の奥の果てない飢えが、それ以上に強かった。


 私は目を閉じて、噛んだ。


 吐きそうになる。実際、喉の奥まで吐き気は上がった。でも、飲み込んだ。


 満たされる感覚が来て、私は我に返った。慌てて残骸を放り投げ、壁に手をつく。


「う、わ……やっちゃった……」


『美味しそうに食べていたわよ』


 ベルザリアは楽しげに言った。


『それで、戻ったでしょう』


 私は荒く息を吐いた。たしかに、さっきまでの目眩は引いている。腹の底は、もう暴れていない。


 助かった。


 その事実と、自分がしたことが、同時に胸の中へ落ちてきて、どうしようもなく気分が悪かった。


「やだなぁ。こんなの、ずっと続くのかなぁ」


『当たり前よ。力を使えば、ね』


「うげぇ……」


『無駄に力を使わなければいいわ。できるならね』


 私は口元を拭った。剣を拾い直し、通路の先を見る。一刻も早くここを出ないといけない理由が、増えたのだ。


 通路はその先で広がっていた。壁に古い灯り台みたいな窪みがいくつも並んでいる。人の痕跡だった。床にも擦れ跡がある。魔物の爪だけじゃない。もっと硬い靴底みたいな筋も、ところどころ残っていた。


「……人も通ったんだ」


『ええ。ここまで来るなんて大したものだわ』


 ベルザリアが素直に言った。


『まあ、無事に帰れたとは思わないけれど』


 そのとき、通路の奥から風が吹いた。


 しっかりと乾いている。

 しかも、どこか煙みたいな匂いが混じっていた。


『止まりなさい』


 ベルザリアが言った。


 私はすぐに足を止めた。


「なに」


『前にいるわ』


 次の瞬間、暗がりの奥で、小さな光がぽつりと灯った。


 火だ。


 誰かが、向こうで火を使っている。


 私は息を止めた。


 敵じゃないかもしれない。


 でも、害がないと決めつけるには早すぎる。


 細い通路の先で、火の明かりがもう一度、揺れた。

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