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行くと決めたら、体がようやく動いた。
何をすればいいのかは、まだわからない。ノエティアを止める方法も、あの子を元に戻す方法も、ミラの中に混じった私の何かが、この先どうなるのかも、何ひとつはっきりしていない。
それでも、座ったままでは何も変わらない。
私は立ち上がった。
「とりあえずミラに、しょっぱいものを買う」
イリスが瞬きをした。
「今からですか」
「うん。約束したから」
『律儀ね』
保護塔の受付で特別滞在札を見せると、職員は札を確認し、外出時刻を帳面に記した。
保護塔を出ると、昼前の光が白い街を照らしていた。朝より人通りは増えている。水路のそばで子どもが板に文字を書き、向かいの薬店では人々が小瓶を箱に詰めていた。
全部がいつも通りに動いている。
その中で、私たちだけが置いていかれている気がした。
パン屋の前には、昨日と同じようにミラの母親が立っていた。私たちに気づくと、向こうから頭を下げた。
「これから見舞いかい」
「はい」
「なら、これを持っていっておくれ」
差し出された紙袋の中には、小さなパンがいくつか入っていた。
「あの子、パンが好きだからね。今朝焼いたやつだよ」
「ありがとうございます」
袋を受け取る。温かくはない。でも、匂いはちゃんと残っていた。
それから、通りの端にある保存食店へ寄った。白い木枠の奥、硝子戸の内側に、燻製や干し肉がと並んでいる。前に来たときは昼前にはほとんど空になっていた棚に、今日はまだいくつか残っていた。
迷って、私が一番好きなものを選ぶ。
「それ、かなり噛みごたえあるよ」
店の男が言った。
「たぶん、そのほうがいいので」
「自分用じゃないの?」
「お見舞い用です」
男は眉を上げた。
「変わった見舞いだ」
「私もそう思います」
包んでもらう前に、特別滞在札を出した。
「これでお願いします」
男は札を見ると、慣れた様子で頷いた。
「ああ、特別滞在札ね。保護塔付けで通しておくよ」
ノエティアの眠そうな顔が頭に浮かんだ。
「じゃあ、同じものをもう少しください」
イリスがこちらを見る。
「マイさん?」
『小さい仕返しね』
「小さくていいの」
男は不思議そうな顔をしながらも、干し肉をいくつか追加で包んでくれた。
重くなった包みを抱えながら、治療院までゆっくりと向かった。
「ミラの面会に来ました」
受付でそう言うと、女性は帳面を確認した。
「短時間なら可能です。ただし、患者さんを不安にさせる話題は避けてください」
「気をつけます」
案内されたのは、昨日までとは違う小さな個室だった。壁には青い文字の輪がゆっくり回っている。
ミラは寝台に腰かけていた。
足首に巻かれていた布はもう外れていた。両足を床につけて、こっちを向いている。顔色もいい。いいというより、良すぎた。
「マイ、イリス」
ミラが笑った。
「来たよ。約束したから」
「嬉しいなぁ」
ミラらしい顔を見て、少しだけ安心する。
「これ、ミラのお母さんから」
パンの袋を渡すと、ミラの顔が明るくなった。
「うちのパンだ」
「食べられそう?」
「うん。あとで食べる」
次に干し肉の包みを出すと、ミラの目がさらに輝いた。
「これだ!」
「食べたいだろうと思って」
ミラは受け取ると、私がよく知っている顔になった。
「なんか、すごく嬉しい。変だね。ちょっと前ならパンのほうが嬉しかったのに」
「……変じゃないよ」
言いながら、追加の包みも机に置くと、ミラが目を丸くした。
「なんか多くない?」
「ちょっとした仕返しなんだ」
「仕返し?」
「特別滞在札で買ったんだ。ノエティアにいっぱい払わせてやろうと思って」
ミラは干し肉の包みと私の顔を交互に見た。
「それ、たぶん大賢者様のお金じゃなくて、神領の管理費から出るやつだよ」
「管理費?」
「うん。税みたいなものじゃないかな」
手が止まった。
「待って。じゃあ、これ、街の人のお金から?」
「たぶんね」
ノエティアへの仕返しのつもりだった包みが、想像以上に重くなった。
『小さい仕返しのつもりが、失敗しているわね』
「うるさい」
小声で返すと、ミラが首を傾げた。
誤魔化すように干し肉の包みを開ける。
「食べようか。もう買っちゃったし」
「うん。貰っちゃったし」
ミラは頷いた。
イリスにも渡して三人並んで干し肉をかじる。ミラは目を細めた。
「おいしいね」
その言い方に、胸が痛くなった。
「それで足の調子はどう?」
訊くと、ミラは自分の足首を見下ろした。
「ほとんど平気。さっき歩かされたよ」
「もう治ったんだね」
「うん。流石に早すぎると思うけどね」
笑いながら言っているのに、どこか違和感が拭えない表情だった。
「あと、治ってはいるけれどしばらくは、退院できないみたいなんだ。変な感じ」
予想はしていた。ミラはおそらく実験の観察対象とされている。
「それにね、昨日から頭の中に知らない部屋みたいなのがあるの」
「部屋?」
「扉は開かないんだけど、向こうに誰かいる気がするんだ。怖いってほどじゃないけど」
ベルザリアが黙った。
イリスも何も言わない。
「その誰かってどんな人なの」
「わかんない。ただ、気配だけあるんだ。あ、でもさっき干し肉を見たら、向こうがちょっと騒いだ気がしたかも」
言葉を探した。
そのとき、扉の向こうで足音が止まった。
治療衣の人の足取りじゃない。もう少し軽くて、でも迷いのない音。
扉が開く。
入ってきたのは、見覚えのある人だった。
黒いセーラー服。
黒い髪。
私の顔。
ノエティアに一号と呼ばれた子だった。




