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 扉が閉まったあと、リゼが前に出た。


「この後はいかがなさいますか。保護塔へお戻りになりますか。それとも、街へ出られますか」


 外に出る気にはなれなかった。


「保護塔に戻る」


「承知しました。滞在札の更新も、そちらで行います」


 リゼはそれだけ言って、歩き出した。


 白い廊下を進むあいだ、誰も話さなかった。

 壁には、いつものように文字が流れている。意味を追う気にはなれなかった。


 リゼの足取りは乱れなかった。案内に必要な角で立ち止まり、扉を開け、こちらが通るのを待つ。余計なことは言わない。


 受付塔の上層へ戻り、書庫の脇を抜け、昇降機に乗る。

 透明な箱が、音もなく下へ降りていった。


 渡り廊下へ出ると、保護塔が向こう側に見えた。白い壁に、青い細線の飾りが入っている。きれいな建物だと思っていた。

 今は、あの白さの奥にも部屋があって、何かが行われている気がした。


 保護塔の受付で、リゼは職員に短く何かを告げた。


 職員が棚から薄い札を取り出す。

 白銀の札だった。表面に、小さな青い紋がひとつ刻まれている。


 リゼはそれを私に差し出した。


「こちらをお持ちください。特別滞在札です」


「特別?」


「大賢者様より、神領内での滞在許可が出ています。保護塔の客室は、今後も自由にお使いいただけます。通常街区への外出も可能です」


 私は札を見る。軽いのに、手の中で冷たかった。


「街に出てもいいの?」


「はい。ただし、外出時と帰着時には受付へお声がけください。上層区画、研究区画、制限書庫へ入る場合は、案内者が必要です」


 リゼの声は変わらなかった。


「ミラ様の治療院への面会、街での買い物、保護塔での休息については、この札で問題ありません。必要があれば、職員に提示してください」


 滞在が特別に許可された。けれど、まったくうれしくなかった。


「わかった」


 札を握る。リゼは静かに頭を下げた。


「お部屋までご案内します」


 部屋までの道はもう覚えていたけれど、断る気力はなかった。


 保護塔の廊下を進み、部屋の前で、リゼが足を止める。


「それでは室内でお休みください。必要があれば、呼び鈴を鳴らしてください」


「うん」


「失礼します」


 扉が閉まる。部屋に、私とイリスだけが残った。


 そのまま寝台に座り込む。

 体は疲れていないはずだった。ベルザリアの体は強い。走ったわけでも、怪我をしたわけでもない。


 なのに、膝のあたりから力が抜けていた。


 イリスは隣の部屋へ行かず、扉の近くで立ち止まっている。どうしていいかわからない顔だった。


「こっちに来る?」


 イリスは迷ってから、近づいてきた。

 そのまま、隣に座る。


 寝台がわずかに沈んだ。


 しばらく、何も言わなかった。


 外から、水路を流れる音が聞こえる。遠くで誰かが笑った。車輪の音もした。


 普通の昼の音だった。


「私、怖かったです」


 イリスが小さく言った。


「うん」


「ノエティア様は、怒っていませんでした。悲しそうでもありませんでした。ただ、必要だから、そうしたみたいで」


「うん」


「それが、怖かったです」


 両手を見る。

 ベルザリアの白い手。強い指。爪の先まで、人間のものとは違う体。


 この手なら、壁だって砕けるのかもしれない。

 でも、青い光の向こうには届かなかった。


「何もできなかった」


「違います」


 イリスがすぐに言った。


「止まったんじゃありません。止めたんです」


「そうかな」


「暴れたら、もっと悪くなっていたと思います」


 イリスの手が、膝の上でぎゅっと握られている。

 私を慰めるためだけの言葉ではなかった。


『あの女を殴るには、コツがいるわ』


 ベルザリアが言った。


「コツ?」


『ここでは壁も床も術式も、あの女の手足みたいなものよ。正面から殴っても、拳のほうが先に止まるわ』


「じゃあ、どうすればいいの」


『知ることね』


 迷いのない声だった。


『何をされたのか。どこまで広がっているのか。どこなら届くのか。知らなければ、噛み砕く急所もわからないわ』


 ベルザリアらしい答え。その言うとおりかもしれない。


 あの子の反応に、ノエティアのわずかな動揺を感じ取れた。

 あの子の中で何かが引っかかったように見えた。


 そう思いたかった。


「まだ残っているかもしれない」


 イリスが顔を上げた。


「さっきの、もう一人のマイさんが、ですか」


「うん」


「助けられますか」


「わからない」


 正直に答えた。


「でも、諦めたくない」


 イリスは頷いた。


「私も、諦めたくないです」


 声は震えていた。ただ、下を向いてはいなかった。


 視線を上げて窓の外を見る。

 保護塔の窓からは、街の一角が見えた。


 パン屋の煙突から、細い湯気が上がっている。治療院の前では、白い治療衣の人が布の束を抱えて中へ入っていく。水路のそばでは、子どもが文字板を胸に抱え、誰かを追いかけて走っていた。


 人がちゃんと暮らしている街。

 パンを焼く人がいて、怪我人を運ぶ場所があって、子どもが走る道がある。


 でも、その上にノエティアがいる。

 怪我を治す手と、人を別のものに変える手が、同じ場所から伸びている。


 ノエティアは、目を離していい相手じゃない。


「まず、ミラに会おう」


 そう言って、塔から目を離した。


「それから、あの子にも会う方法を探す」


『夜は警備が薄いわ。寝込みを襲いましょう』


「そこまでは流石に」


『私は怒っているのよ』


 息を吐いた。


「まあ、私も一緒だよ」


 珍しくベルザリアと意見が同じだった。


 もう一度、塔を見る。

 白く、静かで、何もかも正しい顔をしている塔。


 あの場所に、次に行くときは。

 今度は、怒るためじゃない。


 知るために。


 取り返すために。

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