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 殴りたい。


 生まれて初めてそう思った。


 けれど、ここで手を伸ばしても、また青い壁に弾かれるだけだ。

 無理に壊そうとすれば、この部屋で何が起きるかわからない。イリスもいる。リゼもいる。目の前には、さっきまで私だった子もいる。


 ミラのときみたいに、動けず終わるのは嫌だった。

 でも、怒りだけで動いて、また誰かを巻き込むのも違う。


 私は歯を食いしばったまま、ノエティアを睨んだ。


「第一号助手個体」


 ノエティアが言った。


 私だった子が、ゆっくり顔を上げる。


「はい」


 私の声だった。その声には迷いも息の揺れもなかった。


「正式記録名は、第一号助手個体。通常呼称は一号とするわ」


「一号……?」


 口の中で転がしただけなのに、冷たいものが舌に残った。


「同系統が増えた場合、識別に困るもの。番号があれば混同しないわ」


「人に番号をつけないで」


「現在の分類では、あくまであなたから分かれたものの一つよ」


「それでも人だよ」


 怒鳴る力さえ、もううまく出なかった。


 一号と呼ばれた子は、両腕を身体の横へ下ろしたまま動かない。


「まあいいわ。一号、第一標本を補助保管庫へ。記録核の安定値も取りなさい」


「了解しました」


 彼女はそう答え、黒い瓶を持ち上げた。


 さっきまで泣いていた顔のまま、あの子はノエティアの命令に従う。黒い瓶が金属枠へ置かれ、青い文字がそれを包み、赤い光が沈んでいく。


「返して」


 自分でも驚くほど掠れた声だった。


「何を?」


「さっきまでそこにいた子を返してよ」


「あの人格層ならもういないわ。必要な構成へ組み替えたもの」


 ノエティアは眠そうに瞬きをしただけだった。


「ミラも、彼女も、勝手に変えた」


「ミラには治療補助としての一環で投与した。一号は用途を変更した。処置は別よ」


「違いの話じゃない」


「あなたはそう感じるのでしょうね」


 淡々とした声だった。

 まるで、そこに怒る理由が存在しないみたいに。


「あなたの感情は記録しておくわ」


 ノエティアは続ける。


「器の使用、精神の破壊、一号への処置。その三点への嫌悪ね」


 彼女は椅子に座り直した。青い髪が肩から流れ、白と青の服の袖が紙束へ触れる。優しそうな顔で、一人の人格を消した女だった。


「今回はここまでね。望むなら、あなたたちはいつまで滞在しても構わないわ。また興味深いことがあれば来なさい。話は聞くから」


「私はあなたの顔を、もう見たくないよ」


「私はいつでも歓迎よ」


 悪びれない声だった。


『マイ、引きなさい』


 ベルザリアが言った。低い声だった。


『今ここで暴れても、意味がないわ』


「わかってる」


 私は、私だった子を見た。彼女はノエティアの横に変わらず立っている。


「また、来る」


 私は言った。

 ノエティアではなく、彼女に向かって。


 すぐには答えが返ってこなかった。


「……記録します」


 遅れて、私の声が答えた。

 その短い間に、ノエティアの視線がわずかに動いた。


 私はそれを見逃さなかった。


「行こう、イリス」


 声をかけると、イリスは青ざめた顔で頷いた。

 小さな手が私の袖を掴む。震えていた。


 リゼが扉へ向かう。


「ご案内します」


「いらない」


「塔内規則ですので」


 それ以上は何も言わず、リゼは扉を開いた。


 私は振り返らずに敷居を越えた。


 助けられなかったものばかりが増えていく。


 扉が静かに閉まり、嫌な匂いが遠ざかった。

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