↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
57/61

56

『これが、あなたなのね』


 ベルザリアの声は、静かだった。


「うん。そうだよ」


『弱そうね』


「そこなんだ」


 イリスが硝子越しの私を見て、小さく息を呑んだ。


「マイさん、なんですね」


「元の私だね」


「……優しそうです。でも、今のマイさんも、マイさんです」


 胸の奥が、きゅっと痛んだ。


「それで、あれに私が入るの?」


「入らないわ」


 ノエティアはあっさり言った。


「今ここで喋っているあなたは、あちらへは移らない。あちらで目を覚ますのは、あなたの記憶と自己認識を持ったマイ・ワタナベよ」


 息が浅くなった。


「じゃあ、私は戻れないってことだよね」


「主観で言えば、そうね。でも、元の形に対応するマイ・ワタナベは成立する。あなたの連続した主観は重要ではないわ」


「それ、私じゃないよ」


「今のあなたから見れば、別物ね。でも、紛れもなく採血したときのあなたが入るわ」


 私は硝子の向こうの自分を見る。


 あれに入るのは、私じゃない。

 私に似た誰かだ。


「さらに、理論上は、ベルザリアの体に残っているマイ・ワタナベの精神を破壊すれば、ベルザリアの主導権が表へ戻る可能性が高い。これで問題がふたつまとめて解決するわ」


「破壊!?」


「大丈夫よ。今ここにいるあなたは消えても、器側に形成されたあなたは残るわ」


「違う」


 声が震えた。


「それは違う。あっちに私ができても、今ここにいる私は消えるんだよ」


「情報は保存されるわ」


「私は情報じゃない!」


 叫んだ。

 イリスが一歩前に出る。


「マイさんを消すなんて、駄目です。私と一緒にいてくれたマイさんは、ここにいます」


『ノエティア』


 ベルザリアの声が低く沈んだ。


『その理屈は気に入らないわ』


「あなたには得があるでしょう」


『その方法なら、私は戻らなくていい』


 ノエティアは意外そうな顔をしたあと、黙った。


「起動はしないで。精神破壊もなし」


 自分でも驚くくらい、はっきり言えた。


「精神破壊はなしなのね?」


「しないで。少なくとも、今の私を消す前提なら絶対に嫌」


「では、分離処置は保留にするわ」


 ノエティアは黒い瓶を持ち上げ、硝子の棺の横へ置いた。


「何しているの」


「器は起動するわ」


「今、取り消すって言った!」


「あなたは、精神破壊には同意しなかった。けれど器の起動については、正式に拒絶していないわ」


「拒絶する! 今する!」


「遅いわ」


 青い文字が、硝子の棺を囲むように浮かんだ。黒い瓶の栓がひとりでに開き、赤い光が細い糸になって棺の中へ流れ込む。


「やめて!」


 私は駆け出した。


 リゼが前へ出る。その腕を振り払い、前へ手を伸ばした瞬間、青い文字の壁が私を弾き返した。イリスが叫ぶ。ベルザリアが頭の奥で怒鳴る。


「観測開始」


 ノエティアの声だけが、静かだった。


 赤い光が、硝子の中の少女へ沈んでいく。

 指先が、ぴくりと動いた。


 胸が上下する。

 瞼が震える。


 そして、目が開いた。


 黒い瞳。私の目。


「……ここ、どこ」


 私の聲だった。

 懐かしい、私の声だった。


 硝子の棺が開く。白い冷気みたいなものが流れ出す。黒いセーラー服の袖が揺れる。


 彼女は自分の手を見た。黒髪を触った。制服を見下ろした。呼吸は浅かった。

 それから、私を見た。


 黒い瞳が、大きく見開かれた。


「私だ」


 掠れた声まで、私と同じだった。


「……なんで」


「あなたは器よ。マイ・ワタナベの血液情報から作られた、分離用の肉体」


 ノエティアが言った。


 黒髪の私は首を振った。


「意味わかんない」


「わからなくていいわ」


 混乱したままの顔で、それでも彼女は私から目を逸らさなかった。


「……この体、ベルザリアがいないや」


 呼吸が乱れる。


「ちょっとさみしいかも」


 ノエティアは小さく息を吐いた。


「分離用として使わないなら、この起動人格はいらないわ」


 部屋の空気が凍った。

 黒髪の私の顔から血の気が引く。


「え、なに」


 ノエティアの指が動いた。


「記録核、起動。用途変更。人格層、破棄。第一助手へ再定義」


 青い文字の輪が、黒髪の私の胸元に浮かんだ。

 彼女は両手で胸を押さえた。


「やだ、待って」


 声が震える。

 青い輪が、心臓の位置で回る。


「やだ、やめて、私、まだ――」


 言葉が途切れた。青い文字が皮膚の奥へ沈む。目の光が一瞬だけ消える。表情が抜けた。


「やめて!」


 私は青い壁を殴った。

 びくともしない。イリスが泣きそうな声で名前を呼ぶ。ベルザリアが頭の奥で何かを言った。


 けれど、ノエティアの声だけが静かに続く。


「記録核、定着。第一助手人格、構築。主命令、ノエティア研究補佐。副命令、マイ因子観測。識別番号、一号」


 黒髪の体がゆっくり動いた。


 背筋が伸びる。

 目が開く。


 黒い瞳の奥に、青い文字が一瞬だけ走った。


 涙は残っていた。頬を伝った跡も、そのままだった。

 でも、そこにさっきまでの私は、いなかった。


「……了解しました」


 私の声で、彼女は言った。


「一号、命令を受諾します」


 息がうまくできなかった。


 今、目の前で、私がひとり消された。


 血は流れていない。

 死体もない。


 ただ、そこにいたはずの私は、ノエティアの言葉で別のものに塗り替えられた。


「何したの」


 声が引きつった。


「今、何したの」


「使わない人格を破棄して、用途に合うよう再定義したわ」


 ノエティアは淡々と言った。


「器は貴重よ。無駄にはできないわ」


「私を、人を、消したんだよ」


「人格層のひとつを破棄しただけよ」


「同じだよ!」


『ノエティア』


 ベルザリアが言った。


『それはただの冒涜よ』


 私だった人は、ノエティアの横へ歩いていく。動きはぎこちない。目からはまだ涙が流れていた。


 その涙が、誰のものなのか、もうわからない。


 私は拳を強く握った。


 部屋の青い文字だけが、変わらず静かに回っていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。