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『これが、あなたなのね』
ベルザリアの声は、静かだった。
「うん。そうだよ」
『弱そうね』
「そこなんだ」
イリスが硝子越しの私を見て、小さく息を呑んだ。
「マイさん、なんですね」
「元の私だね」
「……優しそうです。でも、今のマイさんも、マイさんです」
胸の奥が、きゅっと痛んだ。
「それで、あれに私が入るの?」
「入らないわ」
ノエティアはあっさり言った。
「今ここで喋っているあなたは、あちらへは移らない。あちらで目を覚ますのは、あなたの記憶と自己認識を持ったマイ・ワタナベよ」
息が浅くなった。
「じゃあ、私は戻れないってことだよね」
「主観で言えば、そうね。でも、元の形に対応するマイ・ワタナベは成立する。あなたの連続した主観は重要ではないわ」
「それ、私じゃないよ」
「今のあなたから見れば、別物ね。でも、紛れもなく採血したときのあなたが入るわ」
私は硝子の向こうの自分を見る。
あれに入るのは、私じゃない。
私に似た誰かだ。
「さらに、理論上は、ベルザリアの体に残っているマイ・ワタナベの精神を破壊すれば、ベルザリアの主導権が表へ戻る可能性が高い。これで問題がふたつまとめて解決するわ」
「破壊!?」
「大丈夫よ。今ここにいるあなたは消えても、器側に形成されたあなたは残るわ」
「違う」
声が震えた。
「それは違う。あっちに私ができても、今ここにいる私は消えるんだよ」
「情報は保存されるわ」
「私は情報じゃない!」
叫んだ。
イリスが一歩前に出る。
「マイさんを消すなんて、駄目です。私と一緒にいてくれたマイさんは、ここにいます」
『ノエティア』
ベルザリアの声が低く沈んだ。
『その理屈は気に入らないわ』
「あなたには得があるでしょう」
『その方法なら、私は戻らなくていい』
ノエティアは意外そうな顔をしたあと、黙った。
「起動はしないで。精神破壊もなし」
自分でも驚くくらい、はっきり言えた。
「精神破壊はなしなのね?」
「しないで。少なくとも、今の私を消す前提なら絶対に嫌」
「では、分離処置は保留にするわ」
ノエティアは黒い瓶を持ち上げ、硝子の棺の横へ置いた。
「何しているの」
「器は起動するわ」
「今、取り消すって言った!」
「あなたは、精神破壊には同意しなかった。けれど器の起動については、正式に拒絶していないわ」
「拒絶する! 今する!」
「遅いわ」
青い文字が、硝子の棺を囲むように浮かんだ。黒い瓶の栓がひとりでに開き、赤い光が細い糸になって棺の中へ流れ込む。
「やめて!」
私は駆け出した。
リゼが前へ出る。その腕を振り払い、前へ手を伸ばした瞬間、青い文字の壁が私を弾き返した。イリスが叫ぶ。ベルザリアが頭の奥で怒鳴る。
「観測開始」
ノエティアの声だけが、静かだった。
赤い光が、硝子の中の少女へ沈んでいく。
指先が、ぴくりと動いた。
胸が上下する。
瞼が震える。
そして、目が開いた。
黒い瞳。私の目。
「……ここ、どこ」
私の聲だった。
懐かしい、私の声だった。
硝子の棺が開く。白い冷気みたいなものが流れ出す。黒いセーラー服の袖が揺れる。
彼女は自分の手を見た。黒髪を触った。制服を見下ろした。呼吸は浅かった。
それから、私を見た。
黒い瞳が、大きく見開かれた。
「私だ」
掠れた声まで、私と同じだった。
「……なんで」
「あなたは器よ。マイ・ワタナベの血液情報から作られた、分離用の肉体」
ノエティアが言った。
黒髪の私は首を振った。
「意味わかんない」
「わからなくていいわ」
混乱したままの顔で、それでも彼女は私から目を逸らさなかった。
「……この体、ベルザリアがいないや」
呼吸が乱れる。
「ちょっとさみしいかも」
ノエティアは小さく息を吐いた。
「分離用として使わないなら、この起動人格はいらないわ」
部屋の空気が凍った。
黒髪の私の顔から血の気が引く。
「え、なに」
ノエティアの指が動いた。
「記録核、起動。用途変更。人格層、破棄。第一助手へ再定義」
青い文字の輪が、黒髪の私の胸元に浮かんだ。
彼女は両手で胸を押さえた。
「やだ、待って」
声が震える。
青い輪が、心臓の位置で回る。
「やだ、やめて、私、まだ――」
言葉が途切れた。青い文字が皮膚の奥へ沈む。目の光が一瞬だけ消える。表情が抜けた。
「やめて!」
私は青い壁を殴った。
びくともしない。イリスが泣きそうな声で名前を呼ぶ。ベルザリアが頭の奥で何かを言った。
けれど、ノエティアの声だけが静かに続く。
「記録核、定着。第一助手人格、構築。主命令、ノエティア研究補佐。副命令、マイ因子観測。識別番号、一号」
黒髪の体がゆっくり動いた。
背筋が伸びる。
目が開く。
黒い瞳の奥に、青い文字が一瞬だけ走った。
涙は残っていた。頬を伝った跡も、そのままだった。
でも、そこにさっきまでの私は、いなかった。
「……了解しました」
私の声で、彼女は言った。
「一号、命令を受諾します」
息がうまくできなかった。
今、目の前で、私がひとり消された。
血は流れていない。
死体もない。
ただ、そこにいたはずの私は、ノエティアの言葉で別のものに塗り替えられた。
「何したの」
声が引きつった。
「今、何したの」
「使わない人格を破棄して、用途に合うよう再定義したわ」
ノエティアは淡々と言った。
「器は貴重よ。無駄にはできないわ」
「私を、人を、消したんだよ」
「人格層のひとつを破棄しただけよ」
「同じだよ!」
『ノエティア』
ベルザリアが言った。
『それはただの冒涜よ』
私だった人は、ノエティアの横へ歩いていく。動きはぎこちない。目からはまだ涙が流れていた。
その涙が、誰のものなのか、もうわからない。
私は拳を強く握った。
部屋の青い文字だけが、変わらず静かに回っていた。




