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翌朝、朝食を終えたころ、扉を叩く音がした。
来たのはリゼだった。
「初期解析が終わりました。大賢者様がお呼びです」
私は椅子を引いて立ち上がった。
一晩眠っても、ミラのことは胸の奥に引っかかったままだった。笑い方も声も、あの子は確かにミラだった。けれど、干し肉を欲しがったときの、本人さえ戸惑っていた顔が頭から離れない。
「行くんですよね」
イリスが私の顔を見上げた。
「行く」
リゼに案内され、私たちは書庫のある塔へ向かった。
透明な箱が音もなく上昇する。白い街と青い水路が足元で遠ざかる。前なら見入っていた景色も、今日は綺麗に見えなかった。
扉が開くと、紙とインクと薬草の匂いが流れてきた。
上層の書庫は相変わらず本と紙に埋もれていた。けれど、机の上だけは違っていた。
黒い瓶。
硝子板。
青い線の走る金属枠。
ノエティアは机に突っ伏していなかった。椅子に座り、深い青の髪を片側へ流し、黒い瓶を指先で軽く叩いている。眠そうな顔は変わらないのに、水色の目だけが冴えていた。
「おはよう。解析結果を聞きたい?」
「それを聞きに来たんだけど。早く話して」
色々なことが頭を巡って、つい口調が強くなったけれど、ノエティアは気にする様子を見せなかった。
「じゃあ話すわね。初期解析の結果、あなたの血には二つの層があったわ」
「二つの層って」
「第一層は、その肉体が本来持っている情報。今のあなたなら、ベルザリア由来の神体情報ね。再生力、肉体補修、神気反応、言語理解、運動能力等。確認できたものは、すべてここに含まれているわ」
私は自分の手を見た。
並外れた身体能力。
龍に食われても生えてきた腕。
胸の奥に残っている、熱い炉みたいな感覚。
身体は自由に、私の意思で動く。
けれど、私のものではない。
「第二層は、マイ・ワタナベ自身の人格核。単に記憶や魂が残っている、という程度ではないわ。あなたを食べた相手の内部に残り、相手の層へ食い込む。時間が経つほど侵食し、肉体と精神の主導権をあなた側へ引き寄せる層」
深呼吸してから、私は口を開いた。
「……食べられると、私になる」
「ええ。普通なら、捕食された側は血となり肉となり力となるだけ。でもあなたは違う。あなたを食べた相手の内側に、あなたは残り続ける。やがて相手の層を侵し、精神をマイ・ワタナベへ引き寄せる」
食べられた側なのに、相手の中で消えず、逆に相手を私へ変えていく。
「さらに、第一層と第二層は時間とともに混ざっていく。今のあなたの場合、ベルザリア由来の再生反応は、あなたの第二層にも染み込んでいるわ」
「混ざってる?」
「ええ。だから第一層だけを少量取り出したつもりでも、完全には切り離せなかったわ。実験して分かったのだけれど、偏りは出る。好み、反応、自己認識の揺れなどね」
白いパンの包みを開いたときのミラが浮かんだ。自分でも分からないという顔で、欲しがった。
私の好きな食べ物を。
「……ミラに、何をしたの」
「パン屋のミラ。右脚骨折、転位あり。一般治療院で処置した際に、初期解析中に抽出した再生反応をごく薄く治療補助術式へ混ぜて投与したわ」
指先が冷えた。
「勝手に私の血を使ったの」
「使ったのは、あなたの血液因子から分離した反応よ」
「同じだよ」
「厳密には違うわ」
「そういう話じゃない」
ノエティアは首を傾けた。
「私の神領の民よ。この国に住み、この国の治療を受けるなら、私が管理し、私が使うわ」
「人を物みたいに言わないで」
「物ではないわ。民であり、資源であり、記録であり、観測対象よ」
「最悪な管理者だよ」
「そう? 評判はいいけれど」
皮肉ではなかった。本当に理解していない顔だった。
「ミラは普通の子だよ。怪我したから治療を受けただけで、実験されていい理由なんてないよ」
「彼女は治療を受けた。脚はすぐに治る。こちらはあなたの因子の反応を取れる。双方に利益があるわ」
「利益じゃない」
『落ち着きなさい』
ベルザリアが言った。
『話はまだ終わっていないわ。殴るならあとになさい』
「殴る前提なんだ」
『当然でしょう』
握った拳をほどけないまま、私はノエティアを睨んだ。
「続けて」
ノエティアは表情を変えず、硝子板を机へ戻した。
「以上を踏まえて言うわね。あなたとベルザリアは、綺麗には分離できない」
書庫が静まり返った。
「魂、神気、肉体の主導権が絡みすぎているわ。双方を維持したまま無理に引きはがせば、あなたは崩れる。ベルザリア由来の肉体も崩れるわ」
『私の体が?』
胸の奥で、ベルザリアの気配がわずかに硬くなった。
「ええ。でも、別の方法はあるわ。元の姿に近い器を用意し、そこへマイ・ワタナベの人格を形成する」
「それって、私の体を作るってこと?」
「ええ。もう解析して作ってあるわ」
ノエティアが指を鳴らした。
部屋の奥の本棚が、音もなく左右へ開く。
その向こうに、硝子の棺のようなものがあった。
青い光に満たされた内側で、ひとりの少女が眠っていた。
黒い髪。
肩の少し下で揃った髪。
見慣れた目元。
黒いセーラー服。
白い線の入った襟。
胸元の赤いリボン。
見間違えるはずがなかった。
「……私だ」
硝子の向こうにいるのは、元の世界の私だった。




