5
扉の向こうは、さっきまでいた部屋よりずっと暗かった。
壁に埋まった石が、青白い光をじわりと滲ませている。その光が私の影を床へ引きのばし、剥き出しの石の通路へ細く伸びていた。
私はひたすら足を動かした。
足は力強かった。巨人みたいな鈍さも、狼みたいなそわつきもない。細いのに、爪先へ込めた力は石を砕けそうなくらい鋭い。胸の奥には、ずっと炉みたいな熱が渦巻いていた。
いくつかの体を経験したからこそ理解できる。
この体は、生物離れしていた。
『変な歩き方ね』
頭の奥でベルザリアが言った。
『もっと上品に歩けないのかしら』
「私は普通に歩いているつもりなんだけど」
『滑稽ね。私の体が泣いているわ』
声音にうっすらとした嘲りが混じる。
『そんなのじゃ先が知れているわね』
その直後だった。
通路の奥で、石を擦る音がした。
私は反射的に身構える。腰が自然に落ち、重心が前へ滑った。体が勝手に戦う形を知っているみたいだった。
耳を澄ました。暗がりの奥で、何かが這ってくる音が聞こえる。
目を凝らして見えたものは、床へぬらりと広がる半透明の塊。それは止まらず、ゆっくりと、迷いなくこちらへ寄ってくる。青白い光を受けて、内部に溶け残った骨みたいな白い筋がちらついた。
「……なに、あれ」
『上級のスライムよ』
ベルザリアがあっさり言った。
『肉も骨も、石まで舐めて溶かすわ。あなたみたいな素人には、ちょっと嫌な相手ね』
「そもそも戦いたくないんだけど」
『いいから準備なさい』
悠長にしている暇はないようだ。
迷っている間に、あれは近づいてくるのだから。
スライムは一匹だけじゃなかった。奥の暗がりから、ぬるり、ぬるりといくつも滲み出してくる。部屋に散った狼の残骸と血の匂いに引かれたのかもしれない。
『触れたら終わりよ。骨ごと崩れるわ』
「ひええ」
急いで壁際へ跳ぶ。人間だったときなら絶対に届かない距離を、飛んで、越えた。直後、さっきまで私が立っていた床へ半透明の塊がどろりと広がる。石がじゅう、と音を立てて溶けた。
冗談じゃない。
溶かされるなんて真っ平ごめんだ。
「どうすればいいの!」
『焼きなさい』
「どうやって焼くの! 火なんて持ってないし、そんなのできないよ!」
『できるわよ』
ベルザリアの声が、今度は近くなった気がした。
『その体は、頑丈で速いだけじゃないわ』
次の瞬間、胸の奥の熱がぐっと前へ押し出される感覚があった。炉みたいに渦巻いていたものが、手元までせり上がってくる。私の中に、知らない何かが流れ込んできた。
『ほら、右手を出しなさい』
言われるがままに右手を突き出す。指先が熱くなり、爪の先から赤い火花みたいなものが散った。
「え」
『そのまま放ちなさい』
「何を」
『熱よ。あなたの中で暴れているでしょう』
意味がわからない。
でも、考えている時間はない。スライムは床を舐めながら、もうすぐそこまで来ていた。私は指先を広げ、胸の奥の熱をそのまま押し流すように意識した。
瞬間、弾けた。
次に、赤い線が走る。
炎じゃない。もっと細い。空気に裂け目を入れたみたいな赤。それが先頭のスライムへ触れた瞬間、半透明の塊が内側から煮立ったみたいに膨らみ、次の瞬間には真っ黒に焦げた。
嫌な臭いが一気に広がる。
「……なんか凄いのでたけど、なにこれ」
『私の力よ』
ベルザリアは得意げだった。
『雑だけど、出せるじゃない』
雑って何だ。こっちはこんなの知らないんだけど。
文句を言う前に、別の二匹が左右から回り込んでくるのが見えた。私は歯を食いしばって、もう一度右手を振った。今度は赤い線が太くなる。当たって、半透明の表面が裂け、焼け、内部に沈んでいた骨の筋みたいなものが一瞬だけ露わになって、消えた。
効いている。
戦えている。
私は後退しながら何度も赤い線を放った。ベルザリアの体は凄い。けれど、まだ私の使い方が追いついていない。動くたび、指先の感覚がずれていく。流し方を間違えれば、自分の手ごと焼けそうだった。
『下手くそね』
「うるさい!」
『それでもまあ、ほんの少し、ちょっとだけ、褒めてあげないこともないわ』
「褒め方が下手だよ!」
言い合っているあいだに、最後の一匹が足元へ滑り込んだ。迷わず跳ぶ。壁を蹴り、体をひねり、ほとんど落ちるみたいに着地する。長い赤髪が視界の端を流れた。
前なら、こんな動きができるわけがない。
自分が自分じゃない感覚に震えた。けれど深く考えている暇はない。止まっていれば溶ける。私は床を蹴り、上から最後の一匹の中心めがけて赤い線を叩き込んだ。
半透明の塊に、大きな穴が開いた。
そして黒い溶け跡だけを残して、ようやく通路が静かになった。
私はしばらく肩で息をした。疲れてはいないけれど、自然とそうした。体はまだまだ動きそうだ。なんなら、さっきよりこの体の使い方がわかった気さえする。
『ほんとうに雑だけれど』
ベルザリアが言った。
『最初にしては上出来かしら』
「悪くなかったよね」
『まあ及第点かしら』
私は床の黒い溶け跡を見て、それから自分の右手を見た。爪の先には、まだかすかに赤い熱が残っている気がした。
私じゃない手と力。
確かにこれで生き延びた。
ただ、嬉しさより先に、元の体の感覚が薄れていくのが怖かった。
『行くわよ』
ベルザリアが急かす。
『こんな最下層で立ち止まっていたら、次はもっと嫌なものが来るわ』
「……もう十分嫌なんだけど」
『最下層は甘くないわよ』
その一言に、背筋が冷える。
道のりは長いのだと、嫌でも思い知らされた。
深く息を吸い、熱の感覚が残る指を握りしめる。
帰り道なんて、どこにも見えない。
それでも進まないと、始まらない。
私は青白い闇の奥へ足を向けた。




