↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
6/61

5

 扉の向こうは、さっきまでいた部屋よりずっと暗かった。


 壁に埋まった石が、青白い光をじわりと滲ませている。その光が私の影を床へ引きのばし、剥き出しの石の通路へ細く伸びていた。


 私はひたすら足を動かした。


 足は力強かった。巨人みたいな鈍さも、狼みたいなそわつきもない。細いのに、爪先へ込めた力は石を砕けそうなくらい鋭い。胸の奥には、ずっと炉みたいな熱が渦巻いていた。


 いくつかの体を経験したからこそ理解できる。

 この体は、生物離れしていた。


『変な歩き方ね』


 頭の奥でベルザリアが言った。


『もっと上品に歩けないのかしら』


「私は普通に歩いているつもりなんだけど」


『滑稽ね。私の体が泣いているわ』


 声音にうっすらとした嘲りが混じる。


『そんなのじゃ先が知れているわね』


 その直後だった。

 通路の奥で、石を擦る音がした。


 私は反射的に身構える。腰が自然に落ち、重心が前へ滑った。体が勝手に戦う形を知っているみたいだった。


 耳を澄ました。暗がりの奥で、何かが這ってくる音が聞こえる。


 目を凝らして見えたものは、床へぬらりと広がる半透明の塊。それは止まらず、ゆっくりと、迷いなくこちらへ寄ってくる。青白い光を受けて、内部に溶け残った骨みたいな白い筋がちらついた。


「……なに、あれ」


『上級のスライムよ』


 ベルザリアがあっさり言った。


『肉も骨も、石まで舐めて溶かすわ。あなたみたいな素人には、ちょっと嫌な相手ね』


「そもそも戦いたくないんだけど」


『いいから準備なさい』


 悠長にしている暇はないようだ。

 迷っている間に、あれは近づいてくるのだから。


 スライムは一匹だけじゃなかった。奥の暗がりから、ぬるり、ぬるりといくつも滲み出してくる。部屋に散った狼の残骸と血の匂いに引かれたのかもしれない。


『触れたら終わりよ。骨ごと崩れるわ』


「ひええ」


 急いで壁際へ跳ぶ。人間だったときなら絶対に届かない距離を、飛んで、越えた。直後、さっきまで私が立っていた床へ半透明の塊がどろりと広がる。石がじゅう、と音を立てて溶けた。


 冗談じゃない。

 

 溶かされるなんて真っ平ごめんだ。


「どうすればいいの!」


『焼きなさい』


「どうやって焼くの! 火なんて持ってないし、そんなのできないよ!」


『できるわよ』


 ベルザリアの声が、今度は近くなった気がした。


『その体は、頑丈で速いだけじゃないわ』


 次の瞬間、胸の奥の熱がぐっと前へ押し出される感覚があった。炉みたいに渦巻いていたものが、手元までせり上がってくる。私の中に、知らない何かが流れ込んできた。


『ほら、右手を出しなさい』


 言われるがままに右手を突き出す。指先が熱くなり、爪の先から赤い火花みたいなものが散った。


「え」


『そのまま放ちなさい』


「何を」


『熱よ。あなたの中で暴れているでしょう』


 意味がわからない。


 でも、考えている時間はない。スライムは床を舐めながら、もうすぐそこまで来ていた。私は指先を広げ、胸の奥の熱をそのまま押し流すように意識した。


 瞬間、弾けた。

 次に、赤い線が走る。


 炎じゃない。もっと細い。空気に裂け目を入れたみたいな赤。それが先頭のスライムへ触れた瞬間、半透明の塊が内側から煮立ったみたいに膨らみ、次の瞬間には真っ黒に焦げた。


 嫌な臭いが一気に広がる。


「……なんか凄いのでたけど、なにこれ」


『私の力よ』


 ベルザリアは得意げだった。


『雑だけど、出せるじゃない』


 雑って何だ。こっちはこんなの知らないんだけど。


 文句を言う前に、別の二匹が左右から回り込んでくるのが見えた。私は歯を食いしばって、もう一度右手を振った。今度は赤い線が太くなる。当たって、半透明の表面が裂け、焼け、内部に沈んでいた骨の筋みたいなものが一瞬だけ露わになって、消えた。


 効いている。

 戦えている。


 私は後退しながら何度も赤い線を放った。ベルザリアの体は凄い。けれど、まだ私の使い方が追いついていない。動くたび、指先の感覚がずれていく。流し方を間違えれば、自分の手ごと焼けそうだった。


『下手くそね』


「うるさい!」


『それでもまあ、ほんの少し、ちょっとだけ、褒めてあげないこともないわ』


「褒め方が下手だよ!」


 言い合っているあいだに、最後の一匹が足元へ滑り込んだ。迷わず跳ぶ。壁を蹴り、体をひねり、ほとんど落ちるみたいに着地する。長い赤髪が視界の端を流れた。


 前なら、こんな動きができるわけがない。


 自分が自分じゃない感覚に震えた。けれど深く考えている暇はない。止まっていれば溶ける。私は床を蹴り、上から最後の一匹の中心めがけて赤い線を叩き込んだ。


 半透明の塊に、大きな穴が開いた。


 そして黒い溶け跡だけを残して、ようやく通路が静かになった。


 私はしばらく肩で息をした。疲れてはいないけれど、自然とそうした。体はまだまだ動きそうだ。なんなら、さっきよりこの体の使い方がわかった気さえする。


『ほんとうに雑だけれど』


 ベルザリアが言った。


『最初にしては上出来かしら』


「悪くなかったよね」


『まあ及第点かしら』


 私は床の黒い溶け跡を見て、それから自分の右手を見た。爪の先には、まだかすかに赤い熱が残っている気がした。


 私じゃない手と力。

 確かにこれで生き延びた。

 ただ、嬉しさより先に、元の体の感覚が薄れていくのが怖かった。


『行くわよ』


 ベルザリアが急かす。


『こんな最下層で立ち止まっていたら、次はもっと嫌なものが来るわ』


「……もう十分嫌なんだけど」


『最下層は甘くないわよ』


 その一言に、背筋が冷える。


 道のりは長いのだと、嫌でも思い知らされた。


 深く息を吸い、熱の感覚が残る指を握りしめる。


 帰り道なんて、どこにも見えない。

 それでも進まないと、始まらない。


 私は青白い闇の奥へ足を向けた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。