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 朝食を終え、支度を整えるころには、街はもう動き始めていた。


 窓の向こうでは白い道を人々が行き交い、水路の青い光が朝陽の中へ溶けている。私は滞在札を握り直し、隣へ目を向けた。

 

「行こうか」


「はい」


 イリスが頷いた。昨日より顔色がいい。夜、よく眠れたおかげかもしれない。


 まず向かったのは、昨日のパン屋だった。


 店先にはミラではなく、年かさの女の人が立っている。顔立ちが似ていたから、家族だとすぐわかった。


「おはようございます」


 声をかけると、女の人はパンを並べる手を止めた。


「おはよう。あんたたち、昨日の」


「ミラのお見舞いに行こうと思って。食べやすいパン、ありますか」


 女の人の顔が、緩んだ。


「あるよ。今朝焼いた柔らかいのが、ちょうど残ってる」


「じゃあ、それをください」


 白いパンを二つと、塩気のある細長いパンを一つ買った。イリスが包みを大事そうに抱える。


「ミラは騒がしい子だけど、案外繊細なところがあるからね」


 女の人はそう言って笑った。

 

「顔を見せてやって」


 治療院までの道は、昨日より短く感じた。行く理由がはっきりしているからだろう。


 入口の前には、今日も列ができていた。

 白い石造りの建物を前に、人々が黙って順番を待っている。腕を布で吊った老人の前で、咳を押し殺す子どもが母親らしい人の服を握っていた。その後ろには、壁へ背を預けた顔色の悪い女の人がいる。

大声を出す者はいなかった。


 受付でミラの名前を告げると、白い治療衣の女性が記録板へ目を落とした。

 

「面会は短い時間でお願いします」


「はい」


 安静室へ案内され、扉をくぐった先ではちょうど、ミラが寝台の上で上半身を起こしていた。

 

 足は布でしっかり巻かれたままだし、まだ台にも乗せている。けれど、顔色は昨日よりずっといい。包帯の巻かれた手は、もう普通に動かしていた。


「マイ、イリス」


 こちらに気づいたミラが笑った。

 

「来てくれたんだ」


「約束したからね」


 イリスが包みを差し出すと、ミラは両手で受け取った。

 

「わ、パンだ。三つも」


「いっぱい買っちゃった」


「気が利くね」


 笑っている顔は、昨日までのミラと変わらなかった。


 けれど寝台のそばまで近づいたとき、胸の奥に何かが引っかかった。


「足、どう?」


「昨日よりずっといいよ。明日には立てるかもって言われた」


「明日?」


 声が上ずった。


「うん。ここの治療って、すごいみたい」


 ミラは布に包まれた脚へ目を落とした。

 そのあとの言葉が出るまでに、ひと呼吸の間があった。


「……すごいんだけど、なんか変な感じもするんだよね」


「どんな」


「うまく言えないんだけど」


 ミラは眉間に皺を寄せ、布の上へ包帯の巻かれた手を置いた。


「治っていく感じだけ先に来るっていうか、中がずっと熱いっていうか」


 私は返事ができなかった。

 イリスも黙っている。


 ミラは沈黙を気にした様子もなく、膝の上で包みを開いた。白いパンへ鼻を近づけ、頬を緩める。


「ありがとう。すごくいい匂い」


「食べられそうかな」


「うん。でも今は、こういうのより」


 ミラの指が、柔らかいパンの表面を押した。へこんだ生地がゆっくり戻る。


「もっとしょっぱいのが食べたいんだよね。硬い肉っぽいやつ」


 背中を冷たい指でなぞられたようだった。


『……出たわね』


 ベルザリアの声が、頭の奥で低く響く。

 私はそちらへ意識を向けなかった。

 

「硬いの?」


「うん。変だよね。私、朝からそんなの欲しがるほうじゃないのに」


 ミラは困ったように笑った。


 布に包まれた脚も、あどけない顔も変わらない。なのに、どこか知っている雰囲気が、胸の内側へ入り込んでくる。

 私は気にしないように、そちらを意識しないように、奥歯を噛んだ。


「……じゃあ、次は干し肉を持ってくるよ」


 冗談のつもりだった。


「干し肉」


 ミラの目が見開かれた。

 

「それ、ちょうど食べたかったやつだ」


 包みを抱え直し、子どもらしく笑う。

 その笑顔は、変わらずミラだった。


 ミラのはずなのに、ほんの一瞬だけ、私の知っている何かがそこから顔を出したように見えた。

 それの正体を、言葉にはできなかった。


 しばらくしたあと、面会の終了を告げられ、私たちは安静室を出た。


 部屋を出て、扉が閉まる。

 私はすぐには歩けなかった。


「マイさん」


イリスが呼んだ。


「うん」


「さっきのミラさん、少し……」


 声が途切れる。


 イリスは閉じた扉を見たあと、私へ目を戻した。そこで言葉を探すように黙った。


「変、だったよね」


 私が言うと、イリスは小さく頷いた。

 

「はい。元気になっているのは、よかったです。でも」


 確信はない。思い込みかもしれない。怪我のあとで好みが変わることだって、あるかもしれない。

 でも、昨日のミラと、今のミラのあいだに、何かが混じっている気がした。

 

 私がよく知っている何かが。

 

「ちょっと、街を見て回ろうか」


 私が言うと、イリスはゆっくり頷いた。


 私たちは治療院をあとにした。


 外へ出ると、朝より高くなった光が砕け、壁や人の足元で揺れている。

 

 私は一度だけ治療院を振り返り、それからイリスと並んで街へ歩き出した。

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