52
「付き添いの方は、こちらでお待ちください」
治療院の女性に促され、私はイリスと入口脇の長椅子へ移った。
さっきまで人の声と足音で満ちていたのが嘘のように、待合は静かだった。
イリスは膝の上で、両手を固く握り合わせていた。
私は何も言えなかった。
しばらくして、最初に駆けつけた白い治療衣の女性が戻ってきた。
「処置は終わりました。脚の骨が折れています。ずれもあったので、元の位置へ戻しています。今日は安静にさせてください」
「会えますか」
自分でも驚くほど早く声が出た。
「短い時間でしたら」
案内された部屋で、ミラは寝台に横たわっていた。
片脚は布で隙間なく巻かれ、低い台の上に載せられている。両手のひらにも白い包帯が巻かれていた
。
顔色は悪かった。
それでも私たちを見ると、ミラは口元だけで笑った。
「その……痛くない?」
ミラは困ったように眉を下げた。
「痛いけど、死ぬほどじゃないよ」
「笑いごとじゃないよ……」
「でも、子どもには当たらなかったし」
「私、動けたのに」
言うつもりはなかった。ミラが首を傾げる。
「びっくりしたら、誰だって止まるってば」
「違う。私、自分のことを考えた。血が出たらどうしようって」
箱を見た。子どもを見た。
そのあとで、自分の皮膚が裂けることを考えた。
ミラは包帯の巻かれた手を見下ろし、それから私を見た。
「……そっか」
責めもしなかった。慰めもしなかった。
その短い声が、かえって胸に残った。
「……じゃあ、明日も来て」
「え」
「お見舞い。話し相手になってよ。寝てるだけじゃ暇だし」
軽い言い方だった。私は頷いた。
「来る。絶対に」
「約束ね」
「うん」
部屋を出たあとも、すぐには帰れなかった。
頭の中では、箱が地面を打つ音ばかりが繰り返される。
イリスは隣で黙っていた。
昼の鐘が鳴った。
廊下を食事の台車が通り過ぎる。粥の湯気に混じって、温かなパンの匂いが流れてきた。患者も付き添いの人たちも、それぞれの場所で昼食を取り始めている。
私は何も食べたいと思わなかった。
イリスも食事のことを口にしなかった。
そのまま、二人並んで座って、中庭の長椅子で時間を潰した。
午後の鐘が鳴ってしばらくしてから、治療衣の女性に声をかけられた。
「今日はもう、お戻りください」
治療院を出るころには、通りの光が赤みを帯びていた。
水路の青は深くなり、白い壁から長い影が伸びている。
イリスはずっと黙っていた。
私も、帰り道では一度も口を開かなかった。
保護塔までの道が、朝よりずっと長かった。
部屋へ戻り、出された食事を口へ運ぶ。
味は分かる。温かいことも、肉が多いことも分かる。
ただ、形だけで食べているようだった。
『冷めるわよ。食べるのが遅いわ』
ベルザリアが言った。
「そういう日もあるよ」
『早く食べなさい』
それきり、何も言ってこなかった。
寝台へ入っても、目は冴えていた。
箱が落ちる。ミラが飛び出す。私は止まる。
目を閉じるたび、戻ってくる。
「マイさん」
隣室からイリスの声がした。
「まだ、起きていますか」
「起きてるよ」
少し間が空いた。
「……今夜は、一人でいると、考えすぎてしまいそうで」
私は寝台から起き上がり、隣室への扉を押した。
イリスは寝台の上で膝を抱えていた。袖を握りしめ、薄紫の目が暗がりの中で揺れている。
「一緒に寝る?」
口にしてから、少し照れた。
「いいんですか」
「一人だと私も考えすぎるし」
「私、寝相で何かしてしまうかもしれません」
「この部屋、頑丈だから大丈夫」
「寝相でマイさんを蹴るかもしれません」
「私はもっと頑丈だよ」
イリスは、そこでやっと表情を崩した。
私は枕を抱えて隣へ移った。
寝台は広くない。それでも、体を寄せれば二人で横になれた。触れたイリスの肩は冷えていたので、布を首元まで引き上げる。
『子どもの寝かしつけね』
ベルザリアが言った。
「ベルザリアも寝て」
『私は寝ないわ』
「じゃあ適当に、静かにしてて」
『ずいぶん雑な態度』
「なにを今更」
『はぁ……。不敬にも慣れるものね』
いつものやり取りに、イリスが小さく笑う。
「やっぱり、仲がよさそうです」
「よくないよ」
『よくないわ』
声が重なった。
暗がりの中で、イリスが布の端を握った。
「ミラさん、治りますよね」
「治るよ」
言い切った。
「明日、見に行こう」
「はい」
「何か持っていく?」
「出来立てのパンはどうでしょう」
「いいね」
明日のことを一つ決めると、心が少しだけほどけた。
『マイ』
ベルザリアが低く呼んだ。
「なに」
『あなたが止まったのは、怖かったからよ。卑怯だったからではないわ』
「でも、止まった」
『ええ』
「ミラが怪我した」
『ええ』
「次は、迷わない」
ベルザリアはしばらく黙っていた。
『……そうしなさい』
いつもより静かな声だった。
今日は眠れないと思っていた。
けれど、次に気づいたときには朝の光が差し込んでいた。
イリスはまだ隣で眠っている。枕から小さな角がのぞき、寝息は昨夜より穏やかだった。
私は起こさず、しばらくその横顔を見ていた。
今日はミラのお見舞いへ行く。出来立てのパンを持って。
ゆっくりと体を起こせた。
昨日のことは、まだ胸の中にある。
消えたわけではない。
だけど抱えたままでも、立ち上がれる重さになっていた。




