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「付き添いの方は、こちらでお待ちください」


 治療院の女性に促され、私はイリスと入口脇の長椅子へ移った。

 さっきまで人の声と足音で満ちていたのが嘘のように、待合は静かだった。


 イリスは膝の上で、両手を固く握り合わせていた。


 私は何も言えなかった。


 しばらくして、最初に駆けつけた白い治療衣の女性が戻ってきた。


「処置は終わりました。脚の骨が折れています。ずれもあったので、元の位置へ戻しています。今日は安静にさせてください」


「会えますか」


 自分でも驚くほど早く声が出た。


「短い時間でしたら」


 案内された部屋で、ミラは寝台に横たわっていた。

 片脚は布で隙間なく巻かれ、低い台の上に載せられている。両手のひらにも白い包帯が巻かれていた

。

 顔色は悪かった。

 それでも私たちを見ると、ミラは口元だけで笑った。


「その……痛くない?」


 ミラは困ったように眉を下げた。


「痛いけど、死ぬほどじゃないよ」


「笑いごとじゃないよ……」


「でも、子どもには当たらなかったし」


「私、動けたのに」


 言うつもりはなかった。ミラが首を傾げる。


「びっくりしたら、誰だって止まるってば」


「違う。私、自分のことを考えた。血が出たらどうしようって」


 箱を見た。子どもを見た。

 そのあとで、自分の皮膚が裂けることを考えた。


 ミラは包帯の巻かれた手を見下ろし、それから私を見た。


「……そっか」


 責めもしなかった。慰めもしなかった。

 その短い声が、かえって胸に残った。


「……じゃあ、明日も来て」


「え」


「お見舞い。話し相手になってよ。寝てるだけじゃ暇だし」


 軽い言い方だった。私は頷いた。


「来る。絶対に」


「約束ね」


「うん」


 部屋を出たあとも、すぐには帰れなかった。

 頭の中では、箱が地面を打つ音ばかりが繰り返される。

 イリスは隣で黙っていた。


 昼の鐘が鳴った。


 廊下を食事の台車が通り過ぎる。粥の湯気に混じって、温かなパンの匂いが流れてきた。患者も付き添いの人たちも、それぞれの場所で昼食を取り始めている。


 私は何も食べたいと思わなかった。

 イリスも食事のことを口にしなかった。


 そのまま、二人並んで座って、中庭の長椅子で時間を潰した。


 午後の鐘が鳴ってしばらくしてから、治療衣の女性に声をかけられた。


「今日はもう、お戻りください」


 治療院を出るころには、通りの光が赤みを帯びていた。

 水路の青は深くなり、白い壁から長い影が伸びている。


 イリスはずっと黙っていた。

 私も、帰り道では一度も口を開かなかった。


 保護塔までの道が、朝よりずっと長かった。


 部屋へ戻り、出された食事を口へ運ぶ。

 味は分かる。温かいことも、肉が多いことも分かる。


 ただ、形だけで食べているようだった。


『冷めるわよ。食べるのが遅いわ』


 ベルザリアが言った。


「そういう日もあるよ」


『早く食べなさい』


 それきり、何も言ってこなかった。


 寝台へ入っても、目は冴えていた。


 箱が落ちる。ミラが飛び出す。私は止まる。

 目を閉じるたび、戻ってくる。


「マイさん」


 隣室からイリスの声がした。


「まだ、起きていますか」


「起きてるよ」


 少し間が空いた。


「……今夜は、一人でいると、考えすぎてしまいそうで」


 私は寝台から起き上がり、隣室への扉を押した。


 イリスは寝台の上で膝を抱えていた。袖を握りしめ、薄紫の目が暗がりの中で揺れている。


「一緒に寝る?」


 口にしてから、少し照れた。


「いいんですか」


「一人だと私も考えすぎるし」


「私、寝相で何かしてしまうかもしれません」


「この部屋、頑丈だから大丈夫」


「寝相でマイさんを蹴るかもしれません」


「私はもっと頑丈だよ」


 イリスは、そこでやっと表情を崩した。


 私は枕を抱えて隣へ移った。

 寝台は広くない。それでも、体を寄せれば二人で横になれた。触れたイリスの肩は冷えていたので、布を首元まで引き上げる。


『子どもの寝かしつけね』


 ベルザリアが言った。


「ベルザリアも寝て」


『私は寝ないわ』


「じゃあ適当に、静かにしてて」


『ずいぶん雑な態度』


「なにを今更」


『はぁ……。不敬にも慣れるものね』


 いつものやり取りに、イリスが小さく笑う。


「やっぱり、仲がよさそうです」


「よくないよ」

『よくないわ』


 声が重なった。


 暗がりの中で、イリスが布の端を握った。


「ミラさん、治りますよね」


「治るよ」


 言い切った。


「明日、見に行こう」


「はい」


「何か持っていく?」


「出来立てのパンはどうでしょう」


「いいね」


 明日のことを一つ決めると、心が少しだけほどけた。


『マイ』


 ベルザリアが低く呼んだ。


「なに」


『あなたが止まったのは、怖かったからよ。卑怯だったからではないわ』


「でも、止まった」


『ええ』


「ミラが怪我した」


『ええ』


「次は、迷わない」


 ベルザリアはしばらく黙っていた。


『……そうしなさい』


 いつもより静かな声だった。


 今日は眠れないと思っていた。

 けれど、次に気づいたときには朝の光が差し込んでいた。


 イリスはまだ隣で眠っている。枕から小さな角がのぞき、寝息は昨夜より穏やかだった。


 私は起こさず、しばらくその横顔を見ていた。


 今日はミラのお見舞いへ行く。出来立てのパンを持って。


 ゆっくりと体を起こせた。


 昨日のことは、まだ胸の中にある。

 消えたわけではない。


 だけど抱えたままでも、立ち上がれる重さになっていた。

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