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治療院の前には、列ができていた。
白い石造りの建物を前に、人々が静かに順番を待っている。腕を吊った老人。額に布を巻いた子ども。青ざめた顔の女の人。誰もが不安そうではあったけれど、声を荒らげたり、取り乱したりする人はいなかった。
「すごいですね」
イリスが言った。
「うん」
私は頷きながら、列の様子を眺めた。
入口の上には青い文字が浮かんでいる。この距離からでは、細かいところまでは読めない。
そのまま見ていると、店の奥からミラが出てきた。
腕には、さっきとは別の木箱を抱えている。ひと回り大きな箱で、中には小さな丸パンが隙間なく詰まっていた。
「それ、重そう」
「すっごく重いよ」
「手伝おうか?」
「いいの?」
「パン、おまけしてもらったし」
「助かるかも。これ、治療院に持っていくやつなんだ。入院してる人の分」
「治療院って、パンが出るんだ」
「出るよ。食事も治療のうちなんだって」
『わかるわ。治療より食事のほうが重要だもの』
「それは違うと思う」
小声が漏れた。
ミラが首を傾げる。
「マイ?」
「なんでもないよ」
「ふうん」
ミラはそれ以上、深く聞かなかった。
私は木箱を受け取った。
見た目ほど重くない。軽々と抱え直した私を見て、ミラは目を丸くした。
「力あるね」
「まあ、いろいろあって」
『私の体よ。当然でしょう』
「はいはい」
治療院までは、通りを一本渡るだけだった。
ミラは慣れた様子で建物の脇へ回る。
「配達はこっちから」
表の列を避けた先に、小さな勝手口があった。ミラが指の背で木の戸を軽く叩く。
「はーい」
すぐ内側から声がして、白い服の女性が戸を開けた。
「今日もご苦労さま」
「はい。いつもの分です」
「受け取るわ。ありがとう」
私は木箱を差し出した。
「お手伝い?」
「通りがかりです」
「あら、重たいわ。あなた、力持ちね」
白い服の女性はそれだけ言うと、箱を中へ運んでいった。
「終わり?」
「箱を返してもらったら終わり」
しばらくすると、女性が空になった木箱を持って戻ってきた。
「はい、空箱。明日もお願いね」
「はーい」
ミラが受け取ろうとしたので、私は先に手を伸ばした。
「帰りも持つよ」
「いいの?」
「空なら余裕」
木箱は軽かった。抱えて歩くには、少しかさばるくらいだ。
「ありがとう、マイ。明日もよければ手伝ってくれる? もちろん、パンでお礼するよ」
「私、一生手伝う」
『安い女ね』
ミラは笑った。
私たちは店へ戻るため歩き始めた。
その途中だった。
水路沿いを進んでいた荷車が、私たちのすぐ前で激しく揺れた。
車輪を包む青い輪が一瞬乱れ、石畳の継ぎ目に引っかかる。荷台が傾き、積まれていた木箱が滑った。留め紐が、乾いた音を立てて切れる。
箱が落ちる。
道の端にいた子どものほうへ。
私は空箱を放り出した。
石畳を蹴る。子どもまで、あと数歩。肩をつかんで引き寄せれば間に合う。
伸ばした手の先で、落ちてくる箱の角が光った。
剥き出しの金具だった。
その瞬間、リゼの声が頭をよぎった。
――血を流さないでください。
足が止まった。
ほんの一瞬だった。
「危ない!」
飛び出したのは、ミラだった。
子どもの肩を押し、木箱の下から突き飛ばす。
直後、滑り落ちた木箱がミラの脚を打った。
鈍い音がした。
脚をさらわれたミラが石畳へ倒れ込む。とっさについた手のひらが擦れ、白い石の上に赤い血が散った。
「あ」
ミラが短く息を漏らした。
私は動けなかった。
片足が、ありえない向きに曲がっている。それが何を意味するのか、頭が受け入れようとしなかった。
周りがざわめく。
隣で、イリスの顔から血の気が引いた。
「私が、近くにいたから……」
「違う。イリスのせいじゃない」
私は即座に言った。
ただ口にした途端、胸の奥が冷えていった。
違う。
イリスのせいじゃない。
私だ。
ミラのそばまで駆け寄り、石畳に膝をつく。擦りむいた手のひらから流れた血が、白い石の溝へ滲んでいた。曲がった足が視界に入った瞬間、私は目を背けた。
「ミラ」
声がうまく出なかった。
助けられた子どもは泣いていたけれど、怪我はなさそうだった。荷車の男が何度も謝っている。人が集まり、誰かが治癒師を呼べと叫んだ。
私はミラの肩に手を添えた。
「ごめん」
「なんで、マイが謝るの」
ミラは痛みに顔を歪めながら言った。
「私、動けたのに。一瞬、止まった」
声が掠れた。
「人間、びっくりしたら……止まるよ」
「そうじゃなくて」
箱の角で光った金具が、目に焼き付いていた。
『マイ、今は謝罪より処置よ』
「……うん」
治療院の女性が走ってきた。騒ぎを聞きつけたのだろう。ミラの足を見た瞬間、表情が変わった。
「動かさないで」
声が低くなる。
「固定具を。担架も。急いで」
周りの人たちが一斉に動き始めた。
イリスはその場に立ち尽くしていた。
私は彼女の手を握る。
「イリスのせいじゃない」
「でも」
「違う」
今度は強く言った。
「私が迷った」
イリスが私を見る。
私はそれ以上、言葉にできなかった。
担架に乗せられる直前、ミラが顔だけをこちらへ向けた。
「午後の、甘いパン……遅れるかも」
「自分の心配をしてよ」
「マイ、楽しみに……してたから」
笑おうとした口元が歪み、ミラは目を閉じた。
ミラを乗せた担架が、治療院の中へ運ばれていく。
周囲のざわめきが、少しずつ遠のいていく。
荷車の男は何度も頭を下げ、子どもは母親に抱きしめられて泣いている。
水路の光だけが、何も知らないように揺れていた。
私はその場に立ったまま、自分の手を見た。
傷ひとつない、きれいな手。
そのことが、嫌だった。
ミラの血だけが、白い石の上に残っていた。




