↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
52/61

51

 治療院の前には、列ができていた。


 白い石造りの建物を前に、人々が静かに順番を待っている。腕を吊った老人。額に布を巻いた子ども。青ざめた顔の女の人。誰もが不安そうではあったけれど、声を荒らげたり、取り乱したりする人はいなかった。


「すごいですね」


 イリスが言った。


「うん」


 私は頷きながら、列の様子を眺めた。

 入口の上には青い文字が浮かんでいる。この距離からでは、細かいところまでは読めない。


 そのまま見ていると、店の奥からミラが出てきた。

 腕には、さっきとは別の木箱を抱えている。ひと回り大きな箱で、中には小さな丸パンが隙間なく詰まっていた。


「それ、重そう」


「すっごく重いよ」


「手伝おうか?」


「いいの?」


「パン、おまけしてもらったし」


「助かるかも。これ、治療院に持っていくやつなんだ。入院してる人の分」


「治療院って、パンが出るんだ」


「出るよ。食事も治療のうちなんだって」


『わかるわ。治療より食事のほうが重要だもの』


「それは違うと思う」


 小声が漏れた。

 ミラが首を傾げる。


「マイ?」


「なんでもないよ」


「ふうん」


 ミラはそれ以上、深く聞かなかった。


 私は木箱を受け取った。

 見た目ほど重くない。軽々と抱え直した私を見て、ミラは目を丸くした。


「力あるね」


「まあ、いろいろあって」


『私の体よ。当然でしょう』


「はいはい」


 治療院までは、通りを一本渡るだけだった。

 ミラは慣れた様子で建物の脇へ回る。


「配達はこっちから」


 表の列を避けた先に、小さな勝手口があった。ミラが指の背で木の戸を軽く叩く。


「はーい」


 すぐ内側から声がして、白い服の女性が戸を開けた。


「今日もご苦労さま」


「はい。いつもの分です」


「受け取るわ。ありがとう」


 私は木箱を差し出した。


「お手伝い?」


「通りがかりです」


「あら、重たいわ。あなた、力持ちね」


 白い服の女性はそれだけ言うと、箱を中へ運んでいった。


「終わり?」


「箱を返してもらったら終わり」


 しばらくすると、女性が空になった木箱を持って戻ってきた。


「はい、空箱。明日もお願いね」


「はーい」


 ミラが受け取ろうとしたので、私は先に手を伸ばした。


「帰りも持つよ」


「いいの?」


「空なら余裕」


 木箱は軽かった。抱えて歩くには、少しかさばるくらいだ。


「ありがとう、マイ。明日もよければ手伝ってくれる? もちろん、パンでお礼するよ」


「私、一生手伝う」


『安い女ね』


 ミラは笑った。


 私たちは店へ戻るため歩き始めた。

 その途中だった。


 水路沿いを進んでいた荷車が、私たちのすぐ前で激しく揺れた。


 車輪を包む青い輪が一瞬乱れ、石畳の継ぎ目に引っかかる。荷台が傾き、積まれていた木箱が滑った。留め紐が、乾いた音を立てて切れる。


 箱が落ちる。

 道の端にいた子どものほうへ。


 私は空箱を放り出した。


 石畳を蹴る。子どもまで、あと数歩。肩をつかんで引き寄せれば間に合う。


 伸ばした手の先で、落ちてくる箱の角が光った。

 剥き出しの金具だった。


 その瞬間、リゼの声が頭をよぎった。


 ――血を流さないでください。


 足が止まった。

 ほんの一瞬だった。


「危ない!」


 飛び出したのは、ミラだった。


 子どもの肩を押し、木箱の下から突き飛ばす。

 直後、滑り落ちた木箱がミラの脚を打った。


 鈍い音がした。


 脚をさらわれたミラが石畳へ倒れ込む。とっさについた手のひらが擦れ、白い石の上に赤い血が散った。


「あ」


 ミラが短く息を漏らした。

 私は動けなかった。


 片足が、ありえない向きに曲がっている。それが何を意味するのか、頭が受け入れようとしなかった。


 周りがざわめく。


 隣で、イリスの顔から血の気が引いた。


「私が、近くにいたから……」


「違う。イリスのせいじゃない」


 私は即座に言った。

 ただ口にした途端、胸の奥が冷えていった。


 違う。


 イリスのせいじゃない。


 私だ。


 ミラのそばまで駆け寄り、石畳に膝をつく。擦りむいた手のひらから流れた血が、白い石の溝へ滲んでいた。曲がった足が視界に入った瞬間、私は目を背けた。


「ミラ」


 声がうまく出なかった。

 助けられた子どもは泣いていたけれど、怪我はなさそうだった。荷車の男が何度も謝っている。人が集まり、誰かが治癒師を呼べと叫んだ。


 私はミラの肩に手を添えた。


「ごめん」


「なんで、マイが謝るの」


 ミラは痛みに顔を歪めながら言った。


「私、動けたのに。一瞬、止まった」


 声が掠れた。


「人間、びっくりしたら……止まるよ」


「そうじゃなくて」


 箱の角で光った金具が、目に焼き付いていた。


『マイ、今は謝罪より処置よ』


「……うん」


 治療院の女性が走ってきた。騒ぎを聞きつけたのだろう。ミラの足を見た瞬間、表情が変わった。


「動かさないで」


 声が低くなる。


「固定具を。担架も。急いで」


 周りの人たちが一斉に動き始めた。

 イリスはその場に立ち尽くしていた。


 私は彼女の手を握る。


「イリスのせいじゃない」


「でも」


「違う」


 今度は強く言った。


「私が迷った」


 イリスが私を見る。

 私はそれ以上、言葉にできなかった。


 担架に乗せられる直前、ミラが顔だけをこちらへ向けた。


「午後の、甘いパン……遅れるかも」


「自分の心配をしてよ」


「マイ、楽しみに……してたから」


 笑おうとした口元が歪み、ミラは目を閉じた。


 ミラを乗せた担架が、治療院の中へ運ばれていく。

 周囲のざわめきが、少しずつ遠のいていく。


 荷車の男は何度も頭を下げ、子どもは母親に抱きしめられて泣いている。

 水路の光だけが、何も知らないように揺れていた。


 私はその場に立ったまま、自分の手を見た。

 傷ひとつない、きれいな手。


 そのことが、嫌だった。


 ミラの血だけが、白い石の上に残っていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。