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 塔の中は静かだ。紙の擦れる音も、遠くの足音も、全部が薄い膜の向こうにあるみたいだった。


 途中で、イリスが何度もこちらを見ていることに気づいた。


「どうしたの?」


 私が訊くと、イリスは迷ってから口を開いた。


「あの……マイさんがいつも話している方は、本当にいるんですね」


「ああ、うん。いるよ。頭の中に」


 言ってから、自分でもひどい説明だと思った。


「私を食べた子なんだけど、なぜか私が体を動かしていて、その子はベルザリアっていうんだけど」


「ベルザリア様、ですよね」


「様?」


 つい聞き返した。


 イリスは、私の反応に驚いたように目を瞬く。


「力の神ベルザリア様です。魔族でも名前は知っています。燃えるような赤い髪、七柱の一柱、少女の姿をした傍若無人の厄災、頂点捕食者、封じられた神様。昔話では、そう伝わっています」


 私は足を止めた。


「……力の神?」


『ええ』


 頭の奥で、ベルザリアが当然みたいに返事をする。

 私は目を見開いた。


「ベルザリアって神様だったの!?」


『今更なにを言っているのよ』


 心底呆れた声だった。


「いや、神を自称している痛い子だと思ってたから……」


『あなた……食べるわよ』


「もう食べたでしょ」


『もう一度食べてやるわ』


 イリスが目を丸くして、それから笑った。


「仲がいいんですね」


「よくないよ」

『よくないわ』


 声が重なった。


 リゼが前を歩いたまま、手元の板へ何かを書き込む。


「もしかして、今のも記録した?」


「会話内容ではなく、反応の有無だけです」


「それも嫌なんだけど」


「ベルザリア様と関係性は良好、本人は否定、照れ隠しだと思われる、っと」


「最後のところ消して」


「もう記録しました」


 イリスがまた小さく笑った。

 そこからしばらく歩くと、書庫のある塔から細い渡り廊下へ出た。外はもう暗く、白い街が青く沈みかけている。水路の光だけが、道の形を静かに浮かび上がらせていた。


 渡り廊下の先には、別の塔があった。

 書庫のある受付塔ほど高くはない。壁は厚そうで、入口には青い文字が幾重にも浮かんでいた。


 その文字は読めた。


「保護塔」


 私が読み上げると、リゼが頷いた。


「説明があった通り、外から来た方、体質に配慮が必要な方、通常の宿舎では扱いにくい方を一時的に滞在させる施設です」


 イリスが横で身を縮める。


「閉じ込める場所ではありません」


 リゼは先に言った。


「出入りは記録されますが、許可なく拘束するものではありません。食事、医療、入浴、衣服、必要な案内は用意されます」


「ちゃんとしてるんだね」


「保護施設ですので」


『檻に名前をつけるのが上手いわ』


 ベルザリアが言った。


「檻じゃないってば」


『記録され、逃げたら追跡されるのでしょう?』


「たぶん」


『檻ね』


「ベルザリアは極端なんだから」


 リゼがこちらを見る。


「ベルザリア様はなんと言っていますか」


「素敵な施設ですねって言っています」


「保護塔を檻と見なしている、っと」


「なんでわかるの!」


「声は聞こえませんが、文脈はあります」


 イリスが笑った。


 保護塔の中は、思ったより明るかった。


 床は白い石で、壁には青い線が走っている。廊下の角には水瓶があるけれど、倒れないように金具で固定されていた。棚には細い留め具がつき、窓も大きく開きすぎないようになっている。


 リゼは廊下の途中で足を止めた。


「こちらがイリス様の部屋です」


 扉の上には青い札が浮いていた。


 魔物誘引対策。

 事故対策。

 火気遮断。

 水路遮断。

 転倒防止。

 落下物予防。


「すごく対策されている」


 私が言うと、イリスは真面目に頷いた。


「ありがたいです」


 部屋の中を覗くと、確かに寝台の脚は床に留められていた。棚の扉には細い留め具がついている。机の角には柔らかい布が巻かれていて、椅子は丸くて低いものが一脚だけ置かれていた。

 倒れても危なくないように見える。


 優しさというより、事故が起きる場所を先に潰してある部屋だった。


 でも、イリスにはそれが嬉しいのだろう。薄紫の目に、安堵の色が浮かんでいた。


「隣がマイ様の部屋です」


「私も対策つきかなぁ」


「はい」


 扉の札を見る。


 青い文字が、札の上で何度か組み替わった。


 神格干渉注意。

 異世界由来因子。

 血液流出注意。

 内在神格反応。

 文字は止まらない。細い行が下へ増え、札の端からはみ出しかける。

 術式反応過多。

 火気接近注意。

 刃物接触注意。

 食料追加推奨。

 睡眠中発話あり。

 不明事項、多数。


「多いよ!」


 思わず声が出た。


「部屋の注意書き、ちょっとはみ出しているよ」


「必要事項です」


『生肉しか食べないとも追記しておきなさい』


「変な項目増やさないで!」


 突っ込んで、なんだか疲れが増した気がする。


 中は、イリスの部屋より広かった。寝台、机、椅子、水差し、小さな棚。窓の外には、神領ノエティアの街が見えた。


 部屋には扉が二つあった。一つは廊下へ。もう一つは隣のイリスの部屋へ続いているらしい。リゼがその扉を指した。


「隣室への扉は、内側から開閉できます。夜間に不安がある場合は、開けておいて構いません」


 イリスがほっとした顔をした。


「ありがとうございます」


「食事は後ほど運ばせます。入浴の準備もできますが、今夜は体調を優先してください。特にマイ様は採血後ですので」


「ちょっとしか取ってないよ」


「血液量の問題ではありません」


 リゼの視線が、私の腕に向いた。


「採血時、周囲の術式が大きく反応しました。ご本人に自覚がなくても、負荷が残っている可能性はあります」


「負荷ですか」


「はい。気分不良、発熱、眠気、空腹、異常な食欲などがあれば記録してください」


「最後の二つは、普段からあるかも」


 リゼは必要な説明だけを終えると、きっちり頭を下げて廊下へ戻っていった。足音はすぐ遠ざかる。扉が閉まると、部屋の中は急に静かになった。


 私は寝台へ腰を下ろした。


 柔らかい。

 清潔で、白い布がかかっていて、触るとひんやりする。


 イリスが隣室との扉を細く開けたまま、自分の部屋から顔を出す。


「マイさん」


「うん」


「扉、開けていてもいいですか」


「もちろん」


「ありがとうございます」


 イリスは安心したように頷き、また部屋へ戻った。


 私は靴を脱ぎ、寝台に倒れ込む。


 天井には青い線が走っていた。脈みたいに光が流れている。見ていると眠くなるような、監視されているような、変な気分だった。


「ねえ、ベルザリア」


『なに』


「ノエティアって、本当に助けてくれると思う?」


 間があった。

 ベルザリアがすぐに悪口を言わなかったので、私はかえって不安になった。


『助けるでしょうね』


「そうかなぁ」


『あの女は、知りたいものを知るためなら手間を惜しまないわ。あなたを調べるために、助けはする』


「それ、助けるって言うのかな」


『さあ』


 ベルザリアの声は冷たかった。


『少なくとも、善意ではないわ』


「そうだよね」


 わかっていた。

 ノエティアは私を見ている。

 私を知ろうとしている。


 その過程で助けてくれるかもしれない。

 でも、ただ助けてくれるわけじゃない。


 廊下のほうから、控えめな音がした。扉の前に食事が置かれたらしい。続いて、イリスの部屋からも同じ音が聞こえる。


「一緒に食べる?」


 隣へ声をかけると、すぐ返事があった。


「はい。ご一緒してほしいです」


「一人より二人だ」


 扉を開けると、廊下側に台車が置かれていた。蓋つきの皿、パン、温かいスープ、肉の焼いたもの、果物、水。


 肉が多かった。


「嬉しいかも!」


『当然ね』


「なんでベルザリアが誇らしげなのさ」


 私は皿を自分の部屋へ運び、イリスは慎重に私の部屋へ持ってきた。


 食事はおいしかった。


 味は整っている。温度もちょうどいい。栄養もありそうだ。ただ、どこか計算されすぎている。


 ノエティアの国の食事だと思った。


 食べ終えるころには、外はすっかり暗くなっていた。

 白い塔のあちこちに灯りがともり、空には知らない星が出ていた。


 隣の部屋から、イリスの声がした。


「マイさん」


「どうしたの」


「今日は、ありがとうございました」


「気にしなくていいのに。何回も言われている気がするぞ」


「何回でも言います」


 その声は、眠そうだった。


「一人じゃなくて、よかったです」


 私は目を閉じた。


「私も」


 そう答えると、隣の部屋は静かになった。


 青い光が天井を流れる。


 ノエティアの塔。

 私の血。

 戻れる可能性。


 考えることは山ほどあった。


 でも、そろそろ限界だった。


『眠りなさい、マイ』


 ベルザリアが言った。


『考えたところで、何も変わらないわ』


「達観してるね」


『年の功よ』


「そっか。んじゃ、おやすみ、力の神様」


『急に敬うんじゃないわよ。気持ち悪い』


 笑ってしまった。


 白い布に顔を埋める。


 神領ノエティアの夜は、静かだった。

 静かすぎて、どこか遠くで紙がめくられる音まで聞こえる気がした。


 眠りに落ちる直前、私は思った。

 あの黒い瓶の中で、私の血は今も光っているのだろうか。


 既に私から離れた血。

 それはもう、私の血ではなく、ノエティアのものだろうか。

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