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 液体の中を、細い火花みたいなものが走った。絡まり、ほどけ、また別の形になる。


 ノエティアは硝子管を目の高さまで持ち上げた。

 眠そうだった目が、完全に覚めている。


「リゼ」


「はい」


「遮断瓶。青ではなく黒。記録名は、マイ・ワタナベ第一血液標本。扱いは神格干渉物に準ずる」


「承知しました」


「待って」


 私は思わず声を上げた。


「標本って言った?」


「言ったわ」


「人の血にいきなり標本って名前つけないでほしいなぁ」


「では、マイちゃんの最初の血、と名付けるわ」


「それはそれで嫌だけど」


 リゼは何事もなかったように黒い小瓶を取り出した。ノエティアが血の入った管を収めると、瓶の表面に青い文字が浮かび、すぐに沈んだ。


『見なさい』


 ベルザリアが言った。


『喜んでいるでしょう。ああいう顔をしているときの知識馬鹿は、だいたいろくなことを考えていないわ』


「聞こえているわよ」


『だから言っているのよ』


 ノエティアは楽しそうに笑った。

 血を見て嬉しそうにされるのは、かなり気持ち悪い。


 ノエティアが椅子から立ち上がった。

 立ってみると、意外に背が高い。青い髪が背中へ流れ、白と青の長い服の裾が床を擦った。ノエティアが動くだけで、周囲の文字列が道を空けるみたいに揺れた。


「初期解析には三日ほどかかるの。早ければ四日目の朝には、最低限の結果を出せるわ」


「早いね」


「血の反応、ベルザリアとの接続、経路の残滓、あなた自身の形。最低限、その四つは見るわ」


「それで、分かるの?」


「分かることが増えるわ」


「全部は分からないよね」


「全部を解析するには、十年はかかる見込みよ」


「どこまで詳しく調べる気なの」


 彼女が正直なのか、天然なのか、判断に困る。


 ノエティアは黒い瓶を机の奥へ置いた。すると、机の引き出しがひとりでに開き、瓶を飲み込むように閉じた。青い文字が一瞬だけ浮かび、消える。


『取られたわね』


「盗られたみたいに言わないでよ」


『似たようなものだわ』


 なんだか私も盗られた気がしてきた。


 ノエティアは私とイリスを順に見た。


「あなたたちは結果が出るまで、神領に滞在しなさい。休んでも、食べても、街を見てもいいわ。質問があればリゼを通して」


「わりと自由にしていていいんだね」


「ええ。ただ、今日はもう休みなさい。疲れているわよ」


 言われて初めて、自分の体が重いことに気づいた。

 盗賊に捕まって、両腕を食べられて、龍の背中にしがみついて、ここまで来た。平気なわけがなかった。

 イリスも同じだ。顔色はまた悪くなっている。私に付き合って、無理をしていたのかもしれない。


「イリスには保護塔に部屋を用意するわ」


 ノエティアが言った。

 イリスの肩が揺れた。


「保護塔、ですか」


「閉じ込める場所ではないわ。外から来た者や、体質に注意が必要な者を休ませるための塔よ。魔物除け、火気遮断、水路遮断、落下防止。必要なものは部屋ごとに調整できるの」


「調整できるんですか」


「ある程度わね」


 イリスは何とも言えない顔で頷いた。


「……マイさんと同じ部屋がいいです」


 小さな声だったけれど、はっきりしていた。

 ノエティアは少し考えた。


「そうね、同室にすると、魔物誘引と神格と異世界由来因子が、同じ空間に集まるわね」


「私でも嫌な予感がする集まりだ」


「面白そうだわ」


「楽しがらないでよ」


「隣室にしましょう。扉は開けておけるようにするわ」


 イリスは私を見た。

 私は頷いた。


「それなら大丈夫かな」


「はい」


 イリスの表情が、やっと緩んだ。


 ノエティアは次にリゼへ視線を向けた。


「保護塔に客室を二つ。食事は普通食と魔族対応食。マイには肉を多めに」


「承知しました」


「なんで肉多めなの」


「好きでしょう」


『大好きね』


「そこで急に仲良くならないでよ。私も嬉しいけど」


 リゼは無表情のまま、板に書き込んだ。


 ノエティアは机に片手をつき、私を見た。


「それと、マイ」


「まだなんかあるの」


「街では不用意に血を流さないこと」


 その一言で、空気が変わった。


「あなたの血は、術式に想定以上の反応を起こしたわ。人や魔物にどんな影響を与えるかも、今の段階では分からない」


「ここまで来るまでに、もうたくさん流してるんだけど」


「興味深いわ」


 ノエティアは眠そうな顔へ戻りつつあった。さっきまでの鋭さが引いていく。考えることを、内側へしまったように見えた。


『マイ、覚えておきなさい』


 ベルザリアが言った。


『その女に興味を持たれて、無事だったものはいないわ』


 ノエティアの目が、こちらへ向く。何も言わなかった。


 私は大きく息を吐いた。


 大賢者ノエティア。

 ベルザリアの古い知り合い。


 頼るしかない相手なのに、信じていい相手には見えない。


「では、ゆっくり休みなさい」


「眠れるかな」


「眠れないなら、眠らせる薬もあるわ」


「いらない」


「そう。残念」


 ノエティアは黙り、視線を私から自分の手元へ移した。

 試せる手順を一つ逃した、という顔だった。


 リゼが扉のほうへ歩き出す。


「ご案内します」


 私は立ち上がった。


 足元がふらつく。イリスが慌てて支えようとして、逆に自分がつまずきかける。私は笑いそうになりながら、どうにか彼女を支えた。


「大丈夫?」


「はい。ごめんなさい」


「全然いいよ。頼ってね」


 私たちは並んで部屋を出た。

 振り返ると、ノエティアはもう机に肘をつき、黒い瓶の消えた引き出しを眺めていた。


 その横顔は、柔らかく整っていた。

 けれど、目だけは違う。


 眠気も、疲れも、ためらいもない。


 そこにあるのは、新しい謎を見つけた、澄んだ好奇心だけだった。


 私は扉が閉まる直前、その目を見て思った。


 あの人は、私を助けてくれるかもしれない。

 でも、必要だと判断したら、なんでもする気がした。


 白い塔の廊下へ出ると、青い光が静かに流れている。


 神領ノエティアでの最初の夜が、始まろうとしていた。

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