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「とはいっても、もう知っているのだけれど」
ノエティアは、何でもないことみたいに続けた。
私は口を開きかけて、閉じた。
私の名前も、ベルザリアのことも知られていた。ここへ来ることまで、すでに分かっていたらしい。
警戒しないほうが難しかった。
「知っているなら、聞かなくてもいいんじゃないの」
「本人の口から聞くことに意味があるわ」
ノエティアは机の上の紙束を一枚どけた。下から別の紙が出てくる。そこにも文字がびっしり並んでいた。
「記録と本人の認識が一致するとは限らないもの」
「それ、私を試してる?」
「確認しているの」
彼女は眠そうな顔で言った。
『相変わらず、人を紙束みたいに扱う女ね』
ベルザリアが頭の奥で鼻を鳴らす。
「紙束のほうが素直よ、ベルザリア」
『生意気ね、燃やすわよ』
「私は燃えないわ。知っているでしょ」
私は思わず、ノエティアの顔と自分の胸元を交互に見た。
「待って。今、会話しているよね」
「しているわね」
「ベルザリアの声、聞こえるの?」
「声というより、揺れね」
ノエティアは指先で空中をなぞった。
彼女の背後に浮かんでいた青い文字の輪が、ほどけるように形を変えた。細い線がばらけ、別の記号へ組み上がっていく。意味は読めないけれど、何かを写しているのだと分かった。
「ベルザリアは神格を持ったまま、あなたの内側にいるの。声帯を使わなくても、神気の揺れとして表に出ているわ」
「そんなの、分かるものなの?」
「普通は分からないわ。けれど、私なら読める」
『人の心を覗き見る趣味は相変わらずね』
「あなたの大声は嫌でも届くわ」
『黙っていても拾うくせに』
ノエティアは優しい笑顔だけを返した。
「じゃあ、私の考えてることも全部分かったりするの?」
心を読むのが趣味っぽいので、恐る恐る訊いてみた。
「全部ではないわ。分かるというより、ほかの情報と合わせて予想するだけよ」
ノエティアは机の上の紙を指先で軽く叩いた。
「あなたは異世界由来の反応を持っている。王国の証明書を持ち、迷宮都市から神領まで来た。内側にはベルザリアがいる。ベルザリアの肉体を動かす主導権を握っている」
「……」
「その状態で、私に会いに来た。候補は多くないわ」
「候補って」
「あなたが知りたいことなら、元の世界へ戻る方法、元の体へ戻る方法、ベルザリアとの接続をどうするか。このあたりでしょうね」
言い当てられて、喉の奥が詰まった。
イリスは完全に置いていかれた顔をしていた。
「そこまで分かっているなら、もう聞かなくてもいいんじゃないの」
「いいえ」
ノエティアは首を横へ振った。
「それは私が並べた予想よ。あなたが本当は何のためにここへ来たのか、直接聞く必要があるわ」
ノエティアは頬杖をついた。
「あなたは、何のためにここへ来たの。聞かせてちょうだい」
すぐには答えられなかった。
でも、ずっと思っていたことだった。
「……帰りたい」
私は声に出して、ゆっくりと言った。
「元の世界へ帰りたい。元の体にも戻りたい。そのための方法を、教えてほしい」
そしてもう一つ、気になっていることがある。
「あと……ベルザリアを、巻き込んだままでいいのか分からない」
『巻き込んだ、ね』
ベルザリアが頭の奥で鼻を鳴らした。
「言ってみたけど、分からないことが多すぎるよね」
「いいえ」
ノエティアは静かに首を振った。
「目的は一つよ。故郷に戻ること。元の体へ戻ることも、ベルザリアとの接続も、帰還を成立させるための前提だわ」
ノエティアが机に指を置くと、青い線が三本浮かび上がった。
一本はまっすぐ伸びて、もう一本は輪を描き、残った線だけが、そのあいだを頼りなく揺れていた。
「道、器、中身」
ノエティアは一本ずつ指で示した。
「元の世界へ渡る道。あなたが戻るための器。そして、今ここにいるあなた自身」
「それが全部必要なの?」
「ええ。どれか一つでも欠けたら、帰還と呼べないわ」
ノエティアは眠たげな目のまま、三本の線を見た。
「帰る道を定めるには、帰還先を示す座標がいる。座標だけあっても、世界を渡る道がなければ戻れない。そこへ今のあなたを移せなければ、意味がない」
青い三本の線が、机の上でゆっくり寄り合った。
「すべて揃って、初めて帰還になるわ」
分かったような、分からないような。
でも、一つだけ分かった。
簡単じゃない。
「召喚された肉体には、どの世界から呼ばれたのか、その痕跡が残るものなの」
「元の体が、帰る場所を教えてくれるの?」
「正確には、座標になるの。元の体を正しく再現できれば、帰る先を示す座標になり、あなたが戻るための器にもなるわ」
「元の体を作り直すの?」
「そう。召喚される前のあなたと同じ肉体を、この世界で再現する」
ノエティアは輪を描いていた線に触れた。
青い線が形を変え、薄い人影になった。
「いわゆる再現体よ」
人の形をした青い線が、机の上で揺れていた。
「それを作れば、帰れる?」
「そこは、まだ答えを出せないわ」
ノエティアはあっさり言った。
「そっか」
期待していたぶん、胸の奥が沈んだ。
ノエティアはそんな私を微笑みながら見つめていた。
心の沈み方まで見ているようだった。
「再現できるだけの情報が残っているのか、その体が座標として働くのか、そこへあなたを移せるのか。どれも、調べてみなければ分からないわね」
「ベルザリアとは、分けられるの?」
「それも調べる必要があるわ」
ノエティアは人の形をした線を指で弾いた。
「あなたがベルザリアの肉体と、どんなふうに繋がっているのか、分けられる状態なのか。外から見ただけでは判断できないわ」
『随分と曖昧な話ね』
「あなたたちをまだ調べていないもの」
ベルザリアが頭の奥で苛立っているのが分かった。
「それで、私とベルザリアを、元どおりに分ける方法はあるのかな」
「現時点では分からないわ」
即答したノエティアに対して、ベルザリアが身を乗り出したのを感じた。
『なによ、知らないことばかりじゃない』
「知らないことを知っているふりはしないわ」
嘘をついているようには見えない。
「だから、知るために調べるの」
ノエティアは机の引き出しを開けた。
中から、先端に銀の針がついた細い硝子管を取り出した。管には、青い文字の刻まれた留め具が嵌められている。
どうみても、採血するための道具だった。
「答えを出すには、あなたの血が必要よ」
「血から分かるの?」
ノエティアは硝子管を指先で回した。
「どこから来たのか、今の肉体とどう繋がっているのか、元の肉体の情報がどれだけ残っているのか。そういうものは、血に濃く残るわ」
「髪とかじゃだめ?」
「精度が落ちるわ」
「爪とか」
「もっと落ちるわ」
「唾液」
「使えなくはないけれど、やっぱり血がいいわ」
逃げ道がどんどん塞がっていった。
私、注射嫌いなんだけど。
「まずは血を見ないと、何も答えられないわ」
『……量を決めなさい』
ベルザリアが言った。警戒している声だった。
『その女に好きなだけ渡しては駄目よ。必要最低限にしなさい』
「警告してくれるんだ」
『当然でしょう。私の体の血でもあるのよ。好き勝手させないわ』
私は自分の手を見た。
この体は私のものじゃない。
ベルザリアの体だ。
この体の血を渡すことが、本当に帰るための一歩なのか。
それは、分からない。
でも、ここまで来て、何も差し出さずに答えが出るとは思えなかった。
「少しだけ」
私は言った。
「本当に少しだけにしてね」
ノエティアの口元が、わずかに緩んだ。
「ええ。最低限で始めましょう」
「ちなみに、最低限ってどれくらいなの」
「では、採るわ」
「答えになってない!」
リゼは机の横に器具を並べてから、椅子を引いた。
座るしかない空気だった。
私が腰を下ろすと、イリスがそばに立った。
ノエティアが私の手を取る。
指先は冷たかった。
触れ方は丁寧だった。
手首を押さえる位置も、指を支える角度も、無駄がなかった。
ゆっくりと、銀の針が腕に浅く刺さる。
そして赤い血が、硝子管の中へ吸い込まれていった。
その瞬間だった。部屋の青い文字が一斉に、揺れた。
紙束がかすかに浮き、机の上の硝子器具が細く鳴る。背後の文字の輪が、三つに増えていた。
ノエティアに視線を移すと、眠そうな目がはっきり開いていくのが、見えた。
「……へえ」
彼女の声は、さっきまでと違っていた。
楽しそうだった。
「今の、何」
ノエティアは硝子管の中の血を見つめたまま、静かに笑った。
「思っていたより、ずっと面白いわ」
彼女の手物にある硝子管の中で、私の血が赤く光った。
『この顔は、まずいわね』
ベルザリアが、ひどく不機嫌な声で言った。




