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私は迷宮都市で発行された証明書を差し出した。
受付の女性はそれを受け取り、表面に刻まれた文字を確認した。
「記載事項を確認します。氏名を」
「マイ・ワタナベです」
「所属は」
「ありません」
「来訪目的を」
「大賢者様に会いに来ました」
答えながら、さっきの話が頭をよぎった。
早くて数か月。
普通は年単位。
運が悪いと孫。
受付の女性が内容を確かめると、羽根ペンがひとりでに動き、帳面へ書き始めた。
次に、彼女は隣のイリスへ目を向けた。
「そちらは同行者でよろしいですか」
「はい」
イリスの肩がわずかに跳ねた。
黒い外套の隙間から、小さな角が見えていた。隠しているつもりでも、真正面からなら気づかないはずがない。
「氏名を」
「イリス、です」
「氏族、所属、または師の名等、答えられるものはありますか」
「……ありません」
「では、マイ・ワタナベ様の同行者として登録します」
羽根ペンが再び動き出した。
小さな角については、何も言われなかった。
それが優しいのかどうかは、まだわからない。
『何でもそばに置く、あの女らしいわ』
ベルザリアが言った。
『代わりに、置いたものは全部観察対象よ』
「それはそれで嫌だな」
思わず返すと、受付の女性の目が私へ戻った。
「独語癖あり、と記録しますか」
「しないでください」
「承知しました。保留します」
「保留もしないでほしい」
イリスが横で、小さく笑った。
受付の女性は気にせず次の紙を出す。
「大賢者ノエティア様への面会申請について説明します。紹介状、研究成果、所属機関からの推薦状、または緊急性を示す証明はありますか」
「まったくありません」
「では、通常申請となります」
薄々気づいていたが、やっぱり駄目そうだった。
「通常申請の場合、一次審査に三か月から一年。その後、二次審査を経て、面会予約の順番待ちに入ります。現在、一般面会で最も早い枠は四年後です」
「四年……!?」
受付の女性は頷いた。
「なお、申請内容によっては再審査が発生します。再審査となった場合、面会までの平均待機期間は七年です」
「伸びた!」
「はい」
「七年待ったら、私、二十三歳なんだけど」
「年齢と待機期間に関係はありません」
イリスが不安そうに私を見る。
「マイさん」
「うん。どうしようね」
『暴れなさい。それで大体なんとかなるわ』
「暴れるのは最終手段だからね」
受付の女性が、私に視線を戻した。
「暴力行為の予定あり、と記録しますか」
「ありません。絶対にありません」
「承知しました。保留します」
「私が悪かったので保留もやめてください」
この受付、油断すると全部記録しようとする。
私は深呼吸した。
ここまで苦労して来たのに、「四年待ちです」と言われて素直に帰れるわけがない。
でも、受付に怒っても仕方がない。彼女は仕事をしているだけだ。
「緊急性があれば、早くなるんですよね」
「はい」
「頭の中に人がいます」
羽根ペンが止まった。
イリスも固まった。
『マイ、あなた……』
ベルザリアの声が低い。
『言い方というものがあるでしょう』
「でも、事実だし」
受付の女性はしばらく私を見たあと、紙を一枚めくった。
「精神干渉、憑依、神託、自己暗示、迷宮性記憶混濁、いずれの可能性もあります。専門部署での検査予約は可能です。現在、最短で二十六日後です」
「思ったより現実的な対応をされた」
『馬鹿にされているのよ』
「ぐぬぬ」
そのとき、受付の奥にある扉が開いた。
青い長衣を着た女性が出てくる。
年は二十代の後半くらいだろうか。灰色がかった薄青の髪を首の後ろでまとめ、細い銀縁の眼鏡をかけている。肌は白く、目は淡い灰青色だった。
整った顔立ちなのに、表情の動きが少ない。冷たいというより、余計なものを削った人に見えた。
胸元には銀の札。手には薄い板。歩き方に無駄がなく、受付の人たちが一斉に姿勢を正した。
「リゼ補佐官」
受付の女性が言った。
リゼと呼ばれた女性は、私とイリスを順に見たあと、手元の板へ視線を落とした。
「マイ・ワタナベ様。同行者のイリス様」
名前を呼ばれた。
私はこの人に直接名乗った覚えはない。奥から出てきたばかりの人が、私たちを知っている。そのことが、妙に気持ち悪かった。
「大賢者様がお呼びです」
受付の周りが、完全に静まった。
羽根ペンまで止まった。
「今からですか?」
「はい」
「四年後ではなくて」
「通常申請であれば、最短でも四年後です」
リゼは淡々と答えた。
「大賢者様から、到着次第お通しするよう指示が出ています」
イリスが私の袖を掴む。私はその手に軽く触れた。大丈夫、と言いたかったけれど、自分でも大丈夫かどうか自信はない。
受付の女性が新しい紙を取り出した。
「例外面会、大賢者直命。同行者一名。詳細記録、後続処理。独語癖、保留。暴力行為予定、保留」
「あの、最後のは消せませんか」
「消せません。保留です。事実です」
正論で殴られた。
リゼに案内され、私たちは受付台の横を通った。
塔の奥は、音を吸い込むみたいに静かだった。
壁には細い溝が走り、その中を淡い光がゆっくり流れている。水のようでもあり、文字のようでもあった。
途中、本を抱えた老人や薬瓶を運ぶ少年、帯を巻いた神官たちとすれ違った。
彼らはイリスの角に気づいても、露骨に顔を変えなかった。一瞬だけ見て、すぐに自分の仕事へ戻る。
イリスの手が、私の袖からそっと離れた。
塔の奥には、硝子で囲われた小部屋があった。
リゼが扉を開ける。
「上層書庫へ向かいます」
私たちが中へ入ると、扉が閉じた。
次の瞬間、体がふわりと浮いた。
「うわ」
私は壁に手をついた。
イリスも慌てて私の腕を掴む。
硝子の小部屋が、音もなく上へ動いていた。
『この程度で騒がしいわね』
「普通は驚くよ。この世界にエレベーターがあるとは思わなかったし」
リゼは何も言わず、手元の板に何かを書いた。
「今のも記録するんですか」
「必要に応じて」
「ただの独り言ですよ」
「こちらで判断します」
ここでは、油断すると何でも記録される。
大賢者の前では余計なことを言わないようにしよう。
そう決めたところで、硝子の小部屋が止まった。
扉が開く。
案内された先は、巨大な書庫だった。
天井まで届く本棚の間に、丸められた星図や硝子の器具、用途のわからない金属の輪や箱が置かれていた。頭上では、文字列がゆっくりと宙を流れている。
床にも机にも紙束が積まれていたのに、不思議と汚くは見えなかった。どの束にも、置かれる場所が決まっているようだった。
そこに、書庫の中央に置かれた大きな机に、誰かが突っ伏していた。
深い青の髪が、本と紙束の上に広がっている。
夜明け前の空みたいな色だった。腰まで届きそうな長い髪は乱れていて、寝癖なのか、最初からそういう癖なのかわからない。
白と青を基調とした長衣は、神官服の清らかさと、学者服の実用性を混ぜたようだった。片腕の下には開いた本が押し潰され、頬のそばには書きかけの紙が散っている。
徹夜明けの研究者にしか見えなかった。
でも、よく見れば空気が違った。
彼女の周りだけ、音が薄い。紙の擦れる音も、遠い。青い文字の輪が、眠る彼女の背後で静かに回っていた。
リゼが机の前で止まる。
「大賢者様」
返事はなかった。
「大賢者様。お客様です」
青い髪が動いた。
「……知ってる」
眠そうな声だった。
彼女はのろのろと顔を上げた。
白い肌。
眠たげな目元。
やわらかく笑えば、誰でも安心してしまいそうな顔。
でも、目の中が違った。
淡い水色の瞳が、私を見る。
いや、見られているのではない。
読まれている。
私の顔も、名前も、ここへ来るまでの道も、頭の中にいるベルザリアの気配も、順番に紙をめくるみたいに確かめられている気がした。
「来るのが遅い」
大賢者は、あくびを噛み殺しながら言った。
『相変わらず腹の立つ女ね』
ベルザリアの声が、頭の奥で低く響いた。
大賢者は薄く笑った。
「久しぶり、ベルザリア」
私は息を止めた。
彼女は私ではなく、私の奥を見ていた。
それから視線をずらし、今度は本当に私を見る。
「それで」
大賢者は机の上から一枚の紙を拾い上げた。
そこには、私の名前が書かれていた。
「あなたが、マイね」
彼女は眠そうに目を細める。背後の空中で、青い文字の輪がひとつ、音もなく回った。
「さて」
大賢者は笑った。
穏やかな笑い方だった。
だからこそ、怖かった。
「あなたたちは、何を知りたくてここまで来たのかしら」




