45
神領ノエティアは、遠目に見たときよりずっと白かった。
城壁も、門も、道も、建物も、磨き上げた白い石でできている。
屋根は薄い青で統一され、細い水路が道の両脇を流れていた。水は驚くほど澄んでいて、底に敷かれた石が、光を受けてゆっくり瞬いている。
迷宮都市は、金属と革と人の匂いが強かった。ここは違う。清潔な匂いがする。
「静かな街ですね」
イリスが言った。
「うん。人は多いのにね」
誰も大声で騒がない。
話す声は低く、歩く速さまでどこか揃っている。
門の外から来た私たちは、浮いている気がした。
特にイリスは目立った。
隠しきれない小さな角。薄紫の目。
通りすがりの人たちは露骨には見ないけれど視線が柔らかいぶん、余計に落ち着かない。
『こいつらより、魔物のほうが単純でいいわ』
ベルザリアが言った。
「ベルザリアも単純でいいよね」
『そうよ。私の美点の一つよ』
「食べるか怒るかだもんね」
『燃やす、もあるわ』
「増やさないで」
声に出ていた。
近くを歩いていた老人がこちらを見た。私はすぐに咳払いをして、ごまかす。
イリスはもう慣れ始めているのか、困ったように笑うだけだった。
すぐに受付塔へ向かうつもりだった。本当にそのつもりだった。
でも、その前に私のお腹が鳴ってしまった。
みゆきにも負けていない音だった。
イリスが足を止める。
「マイさん」
「違うの。これは空気の破裂音で」
「お腹の音でした」
「はい。私のお腹の音でした」
隠せなかった。
『はやく食べましょう。あれ、あれが食べたいわ』
通りかかったふくよかな人を指していそうなベルザリアを無視して、通りの角にある店へ目を向けた。
開け放たれた扉から湯気が流れている。看板には、丸い鍋と羽根ペンが描かれていた。意味はよくわからないけれど、食事処なのは間違いない。豆を煮た匂いと、焼きたてのパンの匂いがする。
私はイリスを見た。
「食べてから受付塔に行ってもいい?」
イリスは頷いた。
「はい。私もお腹が減っています」
店の中は、外より賑やかだった。
丸い木の机がいくつも並び、客たちは湯気の立つ椀を前に話している。学者風の人が多い。壁には今日の献立と、近くの講義予定らしい紙が並んで貼られていた。
私は空いている端の席へ座った。
イリスはそっと腰を下ろす。
すぐに店の人がやってきた。
若い女の人だった。小麦色の髪を後ろでまとめ、前掛けに粉をつけている。
「旅の人? 豆の煮込みとパンでいい?」
「あ、はい」
「角の子も食べる?」
イリスがびくりとした。
女の人の声に嫌な感じはなかった。ただ確認しただけ、という調子だ。
「食べます」
「じゃあ、柔らかいパンもつけるね。外套、濡れてるから火の近くに行ってもいいよ」
「あ、ありがとうございます」
イリスが頭を下げる。
女の人は笑って、奥へ戻っていった。
「今の人、普通だったね」
「はい」
イリスは胸元を押さえながら言った。
「普通すぎて、怖いです」
「わかる」
しばらく待ったあと、食事が来た。
豆と肉を煮た濃いスープ。黒い香草が浮いている。丸いパンと、木の杯には薄い果実水が入っていた。
私はまずスープを飲んだ。
ほどよい熱さと豆の甘さ。
体の奥が一気に緩む。
「……おいしい」
『生肉は置いていないのかしら』
ベルザリアが言った。
「スープおいしいじゃんか。今は生肉のことは忘れてよ」
小さく返しながらパンを割る。外は硬いのに、中は柔らかい。スープに浸すと、さらにおいしかった。
私はしばらく無言で食べた。イリスも最初は遠慮がちだったけれど、途中からしっかり食べ始めた。
食べながら、周りの声が耳に入ってくる。
「南の塔、また夜中まで光っていたらしいぞ」
「大賢者様の実験だろう。いつものことだ」
別の席では、神官服の男が溜息をついていた。
「面会申請がまた戻された。三年待って、審査差し戻しだ」
「三年なら早いほうだろう」
「早いって何だ。私は老いるんだぞ」
「大賢者様は老いないからな」
「笑えん」
私はパンを持つ手を止めた。
三年。
さっき聞こえた言葉を、頭の中で繰り返す。
「ねえ、イリス」
「はい」
「大賢者に会うのって、そんなに大変なのかな」
イリスは首を傾げた。
『大変でしょうね』
ベルザリアが代わりに答えた。
『あの女は、自分が見たいもの以外には驚くほど興味が薄いもの』
「じゃあ、会えない可能性もある?」
『普通ならね』
「普通なら」
ベルザリアはそれ以上言わなかった。食事の匂いに気を取られているのか、ノエティアについて考えているのか、声が遠かった。
私が深く考える前に、店の女の人が追加のパンを持ってきた。
「足りる?」
「足ります。でも、もう二つください」
「足りてないね」
「はい」
彼女は笑って、パンを置いた。
「大賢者様に用があるの?」
私はぎくりとする。
「顔に出ていました?」
「受付塔のほうばっかり見ているから」
そう言われて、窓の外を見る。
通りの先に、細く高い塔が見えていた。白い石の塔。周囲の建物よりずっと高く、きれいで、自然と目を奪われていた。
「……噂ですが、大賢者様に会うには何年も掛かるとか」
「そう。目的を書いて、待つの。すごく待つ」
「普通はどれくらい待つんですか?」
「早くて数か月。普通は年単位。運が悪いと、予約した人の孫が返事を受け取るらしいわ」
「孫」
食べたパンが喉に詰まりそうになった。
女の人は冗談みたいに笑ったけれど、嘘をついているようには見えない。
「でも、変な人はすぐ呼ばれることもあるよ」
「変な人ですか」
「大賢者様が興味を持った人」
彼女はそう言って、私とイリスを順に見た。
悪意はない。
でも、私たちが普通ではないと、思っている目だった。
「早く呼ばれるといいね」
「ありがとうございます」
「呼ばれたら呼ばれたで、大変らしいけど」
「それ、どういう意味ですか」
「大賢者様だからね」
説明になっていないけれど、店の女の人はそれで十分だと思っているらしく、空いた皿を持って店の奥に消えていった。
私はお代わりしたパンをできるだけゆっくり食べた。
お腹は満ちた。
気力が出た。
それでも、受付塔を見ると胃の奥が重くなる。
決して食べすぎたわけではない。
「行こうか」
私が言うと、イリスは頷いた。
会計を済ませて店を出る。
塔へ近づくにつれ、道を歩く人の種類が変わっていった。旅人が減り、神官や学者が増える。
受付塔は、近くで見るとさらに大きかった。
白い石の門は、塔の根元にぽっかり口を開けていた。扉はないが代わりに、入口の左右に細い柱が立ち、柱の表面を青い文字がゆっくり流れている。
私はその前で一度足を止めた。
「入っていいんだよね」
『ここまで来て入口で帰るつもり?』
「確認しただけ」
私は覚悟を決めて、白い門をくぐった。
内側は、外よりさらに静かだった。
高い天井、磨かれた白い床。
壁一面に並ぶ棚、そこに収められた無数の帳面。
正面には受付があり、その上にも帳面が山のように積まれている。
そこで羽根ペンが、ひとりでに動いていた。
「あれ凄いね。記録を取っているのかな」
『そうでしょうね』
ベルザリアが言った。
『まばたきの回数まで記録される前に、用件を済ませなさい』
「怖いこと言わないで」
ここまで来て、逃げるわけにはいかない。
私は受付の前に立った。
白い服の女性が顔を上げる。
「氏名、所属、来訪目的を」
神領ノエティアの受付は、書類の塊だった。




