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 生身で空を飛ぶというのは、ずっと無茶だった。


 羽ばたくたびに体が浮いた。風が横から殴ってくる。


「ゆっくりって言ったよね!?」


 叫んでも、声は風にちぎられていく。


 みゆきは喉を鳴らした。


 私の前では、イリスが黒い外套を必死に握りしめていた。私が片腕で支えていなければ、とっくに後ろへ転がっていたと思う。顔は真っ青で、薄紫の目は見開かれたまま、涙が風に流されていた。


「イリス、大丈夫?」


「だ、大丈夫です」


「本当に?」


「大丈夫じゃないです」


「ほんとごめん」


『風前の灯ね』


 頭の奥でベルザリアが言った。


 夕暮れはすぐ夜に変わった。地上は暗く、ところどころに村の灯りが点々と浮いている。

 私たちはその上を飛んでいく。馬車なら何日もかかる道を、みゆきは一息で越えていく。


 風が冷たくなって、イリスの体が震え始めたので、私は外套の端を彼女の肩にかけ、支え直した。

 私はそれほど寒くなかった。胸の中の炉は、外に合わせて勝手に熱を保ってくれる。便利な体だった。


「ごめんなさい」


 イリスが、消えそうな声で言った。


「どうしたの?」


「支えてもらって、外套まで。私がいると、また魔物も来ますし」


 言葉の最後が小さくなる。


 この子はたぶん、ずっとそうやって自分を責めてきたのだ。転んでも、物が壊れても、魔物が寄ってきても、全部自分のせいだと。


 胸の奥が痛んだ。


「迷惑じゃないよ」


 私はすぐに言った。


 イリスが驚いたようにこちらを見る。


「でも」


「他の人がどう思うかは、正直私には分からない。でもね、私はイリスのこと迷惑だなんて絶対に思わないよ」


「……なんでそんなこと言い切れるんですか」


「私はお節介なお姉さんだからですよ。年上には頼っていいんだよ、イリス」


 イリスはしばらく黙ったあと、小さく口を開いた。


「マイさんは、変です」


「よく言われる」


「でも、安心します」


「それならよかった」


 私は彼女の肩に外套をかけ直した。


「あとね、私のほうがいっぱい迷惑かけると思うから、そのときは助けてよね」


 イリスが肩を揺らした。笑ってくれているなら、嬉しい。


 その後も、風に声を取られながら話をした。そうしているうちに、夜明け前の空の色が薄くなって、遠くに白いものが見えた。


 最初は山かと思った。でも違う。


 地平の向こうに、いくつもの白い塔が立っていた。細く、高く、空へ針みたいに伸びている。塔と塔のあいだには橋がかかり、その下を青い水路が走っている。

 街全体が、まだ暗い空の下で淡く光っているように見えた。


「あれかな」


『そう。あれが神領ノエティアよ』


 ベルザリアが言った。


「神領ノエティア」


 大賢者ノエティアがいる場所。

 手がかりがあるかもしれない場所。


 ここまで来た。食べられて、捕まって、龍に乗って、ようやくここまで来た。


 胸の奥が熱くなった。期待なのか、不安なのか、自分でも分からない。


 みゆきは、街には降りなかった。


 白い塔が近づく前に、彼女は大きく旋回して、街道から外れた丘の上へ降りた。

 翼が草を倒し、朝露が飛ぶ。足が地面に触れた瞬間、私はほとんど転がるように降りた。


 膝をついている私の横で、イリスもよろよろと降りる。顔色はまだ悪いけれど、ちゃんと立っていた。


「生きてる?」


「はい……」


 蚊の鳴くような声で、イリスは答えた。


 みゆきはそんな私たちを見下ろして、どこか得意そうに鼻を鳴らす。


「速かったよ。すごいね」


 私が言うと、みゆきは喉を鳴らした。


「でも次はもう少し、ゆっくりでお願いします」


 みゆきは視線を逸らした。

 その直後、みゆきの腹が鳴った。


 大きかった。


 丘の草が震えるくらい、低くて長い音だった。


 私は見上げる。イリスも見上げる。みゆきは何も聞こえなかったみたいに、空のほうを見た。


「……お腹空いたの?」


 みゆきは黙った。

 黙ったまま、尻尾の先だけがそわそわ動いている。


『龍の体だもの。燃費は相当悪いと思うわ』


 みゆきは街とは反対側、山のほうを見た。森が広がっている。魔物か獣か、何か食べられるものがいるのだろう。


「行くの?」


 みゆきは私を見る。


 大きな目の奥に迷いがあった。置いていくのが気になるのかもしれない。あるいは、単に干し肉を期待しているのかもしれない。


 私は服の内側を探った。


 盗賊に捕まって、馬車が壊れて、荷物もほとんど失くした。けれど、貴重品だけは服の内側に入れていたから無事だった。証明書とお金と、干し肉の包みだ。


 包みを取り出す。


 みゆきの目が動いた。


「あと、こんだけしかないよ」


 みゆきは真剣に、取り出した数切れを見た。


「腹の足しにもならないかもだけど」


 それでも差し出すと、みゆきは器用に口先だけで受け取った。牙の隙間に消える。噛んだのかどうかも分からないくらい小さかった。


 それでも、みゆきは満足そうに目を細めた。


「また、会えるかな」


 問いかけると、みゆきは頭を下げた。


 必ず会おうと、言っている気がした。


 次の瞬間、銀の翼が広がった。風が巻き、草が寝る。イリスが私の袖を掴む。私は彼女を支えながら、飛び立つみゆきを見上げた。


 銀龍は朝焼けの空へ上がり、山のほうへ滑るように飛んでいった。


 その姿が雲の端に消えるまで、私たちは見送った。

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