42 ルウ2
白狼の喉が、鳴った。
干し肉に向けていた鼻先が上がる。
それに合わせて暗がりから、灰色の影が這い出てきた。
七匹。
痩せた犬に似た魔物だった。肩だけが張り、口が横へ裂けている。目はぎらぎらしていて、こちらではなく白狼を見ていた。
「多いね」
僕の声が上ずった。
白狼が一歩前へ出る。
無茶だ、と思った。
白狼は消耗しきっている。これ以上戦えば、勝っても倒れる。いや、そもそも勝てないかもしれない。
バルトが保存食の袋を地面に置いた。
腰の手斧を抜く。もう片方の手には投石紐。丸い背中が、いつもより低くなる。
「やるぞ」
パトラは背中の細い槍を手に取った。
「白狼はどうしよう?」
僕が訊くと、バルトは短く答えた。
「今は敵じゃない」
バルトが言い終えた瞬間、一匹が飛びかかってきた。
視界の隅にいた白狼は、もう動いていた。
傷ついた体とは思えない速さで、一匹の喉元へ食らいつく。そのまま押し倒す。けれど、次の瞬間には足が揺れた。
バルトがその横へ入った。
手斧で足元を削るように払い、近づいた二匹目の前脚を叩く。姿勢を崩したところへ、投石紐から放たれた石が鼻先を打った。
パトラは白狼の死角へ回ろうとした三匹目の前に細い槍を差し込んだ。先が関節の近くをかすめ、灰色の魔物が嫌がって跳ねる。
僕は四匹目と目が合った。
迷わず短弓を引いた。
狙いなんてほとんどない。矢は魔物の肩をかすめただけだった。それでも、相手の動きが止まる。
その瞬間、白狼が横から飛び込み、魔物の首に牙を立てた。
白狼はすぐに離れ、ふらついた。
後ろから、別の敵が回るのが見えた。
「パトラ!」
パトラの手が動いた。
細い針が魔物の目に向かって飛ぶ。当たって動きが鈍る。そこへバルトの手斧が入った。柄の重い部分で横から叩きつける。
魔物は地面を転がった。
「今のは麻痺針?」
僕が訊くと、パトラは答えた。
「普通の針」
「麻痺針は?」
「高い」
数を減らしきって、会話する余裕が生まれた。
残った二匹は、不利になったことを察して、じりじりと下がる。
灰色の魔物たちは、そのまま暗がりへ消えていった。
白狼は、今度こそ限界だった。
ふらりと体が揺れる。
倒れる、と思った瞬間、バルトが近づいた。支えようとして、途中で止まる。白狼がまだ牙を見せていたからだ。
バルトは手を出さず、かわりに干し肉を一切れ、白狼の鼻先手前に置いた。
白狼はバルトを見た。
干し肉を見た。
それから、地面に座り込んだ。
「治療する?」
僕が訊くと、パトラが白狼の傷を見た。
「したい」
バルトがまた袋を探った。
「干し肉はまだある」
「それ治療道具じゃないよ」
「大丈夫だ。これさえあれば、大体の生き物は大人しくなる」
「便利だな干し肉」
バルトが二切れ目を地面に置く。
白狼はすぐには食べなかった。
バルトを見る。
パトラを見る。
僕を見る。
それから、干し肉を咥えた。
その間に、パトラが薬を取り出す。小瓶を二つ、布を一束、細い針を一本。
「しみる薬」
パトラが小瓶を持ち上げる。
「でも、効く」
「白狼にそれが伝わるかな」
「嫌がると思う」
パトラが瓶の栓を抜くと、つんとした薬の匂いが広がった。
白狼の耳が後ろへ倒れる。
パトラがゆっくり近づく。
白狼の牙が見えた。喉の奥で低い音が鳴る。
僕は弓を下ろしたまま、息を止めた。
パトラは、白狼の真正面へは行かなかった。斜めにしゃがみ、薬瓶を見せるように床へ置く。それから、自分の手を開いて見せた。
白狼は嫌そうな顔をしていた。
それでも、逃げなかった。
パトラが傷口に薬を落とす。
白狼の体がびくりと震えた。牙がはっきり見える。
でも、白狼は噛まなかった。
ただ、ものすごく嫌そうな顔をしている。
「表情が豊か」
パトラが言った。
「魔物ってこんな顔するっけ?」
「しない」
手当ては簡単なものだった。深い傷は多い。全部を治せるほど薬はない。血を止め、ひどいところだけ布で押さえる、応急処置だった。
白狼は最後まで静かにしていた。
干し肉はもうたくさん食べていた。
「完全に餌付けだね」
白狼はそっぽを向いた。
でも、尻尾の先が揺れていた。
手当てが終わるころには、僕らも白狼も疲れ切っていた。血と泥と薬の匂い。中層の空気は重く、奥からまた何かが来てもおかしくない。
パトラが立ち上がった。
「手当終わり」
「じゃあそろそろ戻ろうか」
「それで、こいつはどうする?」
バルトが白狼を見た。
白狼も座ったまま、こちらを見ている。
「ここでお別れかな」
僕は言った。
「連れて帰るのは無理だよ。魔物はそもそも街に入れないし」
白狼はじっと僕を見た。
責められている気がする。
「いや、事実を言っただけで」
つい話しかけてしまった。
パトラが首を傾げる。
「中層にいたらまた襲われる。危ない」
「それはそうだけど」
「上層までなら俺の高等技術で誘導できるぞ」
バルトが言った。
「高等技術?」
バルトが干し肉の袋を持ち上げた。
「これだ」
「ただの餌付けじゃないか!」
「違う。距離、角度、匂い、タイミングを読む」
「言い方だけ急に専門的にしないでよ」
白狼の尻尾が、さっきより大きく動いていた。
結局、僕たちは白狼を連れて上へ戻ることになった。
正確には、白狼が一定の距離を保ってついてきている。
バルトが前を歩く。
僕が後ろを振り返る。
白狼は離れたところを歩いていた。足取りは重い。それでも、置いていかれそうになると早足になり、近づきすぎると止まる。
悩ましい距離感だった。
「ちゃんとついてきてる」
パトラが嬉しそうに言った。
「ついてきてるね」
僕は確認しながら答えた。
「それで、連れて帰るの?」
「上層の安全なところまでだ」
バルトが言った。
「本当に?」
「たぶん」
「たぶん……?」
白狼が鼻を鳴らした。
笑われた気がした。
上層に近づくにつれて、空気が軽くなる。白狼の足取りもいくらか安定した。けれど、まだ傷は深い。放っておいていい状態ではない。
途中でバルトが立ち止まった。
「名前がいるな」
「なんで?」
僕は聞き返した。
「呼びにくい」
「呼ぶ必要あるかなぁ」
「今後必要になるかもしれない」
その今後が何なのか、怖くて聞きたくなかった。
パトラが白狼を見る。
「シロ。白いから」
「安直だよ」
「わかりやすい」
「そうだけど、もう少し捻りたいな」
バルトは真面目に頷いた。
「そうだな、肉食いとかどうだ」
「最悪」
パトラが即答した。
白狼は、ものすごく嫌そうな顔をした。
「雪みたいに綺麗だから、ユキとか」
僕が言うと、白狼が顔を上げた。
僕たちは全員、黙った。
白狼はこちらを見ている。
耳が立っている。
音に反応したのか、偶然なのかはわからない。
「ユキ?」
もう一度呼ぶ。
白狼は一歩だけ近づいた。
バルトが笑った。
「決まりだな」
「いいの?」
「悪くない」
パトラが短く言った。
「ユキ」
白狼は、今度はパトラを見た。
逃げない。
唸らない。
尻尾が揺れていた。
「決まり、かな」
名前をつけた瞬間、ただの魔物ではなくなった気がした。
強い。
おそらく特殊個体とも違う。
正体もわからない。
それでも、名前はユキだった。
僕たちは上層の安全な通路まで戻った。
そこで別れるつもりだった。
本当に、そのつもりだった。
僕たちが出口のほうに歩き出すと、ユキも歩き出した。
バルトが止まる。
ユキも合わせて止まった。
僕が振り返る。
ユキは何も知らない顔をした。
パトラが口を開いた。
「ついてくる」
「ついてくるね」
バルトは干し肉の袋を見た。
「もう一切れ、いるか?」
「バルト!」
ユキがゆっくりとバルトに近づいていく。
もう駄目だと思った。
たぶん、僕たちは変なものに関わってしまった。
ユキは僕たちのすぐ近くで、前足で干し肉を押さえながら齧っている。
僕は深くため息をついた。
「協会になんて説明しよう」
バルトが浅く考える。
「白い狼がついてきた」
「そのままだね」
「嘘ではないぞ」
パトラが頷く。
「本当のこと」
「二人とも、もっと考えようよ」
ユキがこちらを見る。
薄汚れて、傷だらけで、ぼろぼろで、それでも不思議なくらい綺麗な白狼。
僕はもう一度呼んでみた。
「ユキ」
白狼は顔を上げた。




