41 ルウ1
迷宮中層の奥。
下層へ続く道が、崩れた石門の隙間へ落ちていく場所。
そこに、白い狼がいた。
毛は泥と血で固まっている。脇腹には爪痕が何本も走っていた。
それでも、汚れの下に残った毛並みが、青白い石の光を受けて、雪みたいに光っていた。
狼の周りには、魔物の死骸が三体転がっていた。
どれも、まともに相手をしたくない魔物だった。
その真ん中で、白狼だけが立っていた。
「……バルト」
僕は小声で呼んだ。
前を歩いていた丸い背中が、こちらへ振り返る。
バルトは、僕ら三人の中で一番荷物が多い。
背は低く、体つきは丸い。赤茶の縮れ毛は、いつも寝癖みたいに跳ねている。顔にはそばかすが散っていて、垂れた目のせいで、黙っていても人がよさそうに見えた。
腰には手斧、背中には鍋、肩からは保存食の袋。
どう見ても冒険者というより、迷宮に迷い込んだ料理番だった。
「どうした。食えるものでもあったか」
「違うよ」
「じゃあなんだ」
「敵、だと思う」
僕が指を差すと、バルトの顔つきが変わった。
食べ物の話をしているときと違って、こういうときのバルトは落ち着いている。手斧の柄に、素早く手をかけた。
背は僕より低いのに、凄く頼りになる。
僕の後ろから、パトラが音もなく近づいてきた。
背は高く、手足が長い。白に近い薄金の髪を一本の三つ編みにして、肩から前へ垂らしている。
革鎧の上に長い外套を羽織り、背中に細い槍を背負っていた。
そんな彼女の薄緑の目は、僕たちではなく白狼の傷を見ていた。
「白狼」
パトラが言った。
バルトは倒れた魔物たちを見て、低く唸った。
「全部、あいつがやったのか」
「たぶん」
パトラが短く答える。
白狼はこちらを観察しているように見えた。
普通の魔物なら、もっと野性味のある目をする。けれど、この白狼は違った。警戒しているだけじゃない。
考えている。
そんな顔に見えた。
「普通の白狼じゃないよね」
僕が言うと、パトラが頷いた。
「白狼はこんなに強くない」
「特殊個体か?」
バルトが問う。
「かもしれない」
「なら、無理はしないでおこう」
バルトそう言いながら一歩だけ前に出る。戦うためではなく、僕とパトラの前に立つための動きだった。
白狼の目が、その足元を追った。
次に、バルトの右手を見る。
手斧の柄にかかった指。
白狼の背中の毛が、ゆっくり逆立った。
バルトはそこで止まった。
白狼も、動かない。
空気だけが張り詰めていた。
「……前に出たのは軽率だったか」
バルトが低く言った。
「ゆっくり下がったほうがいいかもしれないね」
僕は答えた。
「これ以上動くのも危険」
パトラが、白狼を見たまま続けた。
「殺気立ってる」
バルトが息を吐く。
「近づくと危ない。逃げても危ない。なら、今はこのままか」
僕たちはそのあと、しばらく動けなかった。
ただ、白狼の呼吸がだんだん荒くなっている。血が足元に落ち、肩が震えていた。
それでも、倒れない。
僕はその姿を見て、胸が痛くなった。
「……どうしよう」
僕が小さく言うと、バルトが唐突に荷物を下ろした。
嫌な予感がする。
「バルト」
「なんだ」
「今、何を出そうとしているの」
「干し肉だが」
「なんで?」
「腹が減ってるかもしれないだろ」
「魔物の白狼だよ」
「魔物も腹は減る」
「そうだけど」
バルトが袋の口を開いた。
その瞬間、白狼の耳がぴくりと動いた。
僕は見逃さなかった。
パトラも見逃さなかった。
「反応」
「したね」
白狼は顔をそむけた。
何も見ていない、というとぼけ顔だった。
ただ、ものすごく露骨だった。
あれだけ威圧して、こちらを測って、倒れそうになっても、力を振り絞って立っていた白狼が、袋から漏れた干し肉の匂いに反応して、それを誤魔化そうとしている。
僕は、迷宮で見た赤髪の少女をふと思い出した。
ゴブリンとともに現れて、僕らを助けてくれた人。
干し肉を見て、ものすごく物欲しそうな顔をしていた人。
いや、関係ない。ないはずだ。
「なんだか、あまり深入りしないほうがいい気がするよ」
僕が呟くと、パトラが静かに言った。
「もう遅い」
「まだ引き返せるかもしれないよ」
「バルトが干し肉を出した」
「ああ、もう駄目だ」
バルトは干し肉を誇らしげに出していた。
白狼の鼻が動いた。
耳も動いた。
今度は隠せていなかった。
バルトは干し肉を地面に置き、何歩か後ろへ下がった。
「食うか?」
白狼は、地面の干し肉を見た。
次にバルトを見た。
次にパトラを見た。
最後に僕を、見た。
それから、ゆっくり近づいた。
一歩。
足元がふらつく。
それでも止まらない。
二歩。
血が落ちる。
三歩目。白狼は干し肉を咥えた。
そして食べた。一瞬だった。
バルトが笑った。
「よし」
「よしじゃないよ。餌付けしないでよ」
「食えるなら、まだ生きられるぞ。よかったな」
バルトはたまに、妙に真っ直ぐなことを言う。
僕たちにさっきよりも近づいた白狼は、すぐには下がらなかった。
鼻先を低くしたまま、バルトを見ている。
ほんの少しだけ、背中の毛が寝たようにも見えた。
「もう一枚、いるか」
白狼の尻尾が、かすかに揺れた。
「興味深い」
パトラが言った。
「いやこれ以上、餌与えないでよ、危ないよ」
「危険。だから見たい」
「だめだこのパーティ。変な人しか居ない」
僕が頭を抱えたそのとき、下層に続く奥の道から音がした。




