40 リディア2
若い騎士が奥歯を噛んだ。
理由は聞かなくても分かった。目の前の低い影は討伐対象だ。迷宮で見つければ迷わず剣を向ける相手。その相手に背中を預けろと言われて、すぐ納得できるはずがない。
ただ、今はそれしか生き残る道がない。
ゴブリンの一体が、壁の上から石を落とした。タイタンアントが顔を上げる。その瞬間、別のゴブリンが床を蹴って音を立てた。相手の顎がそちらへ向く。
敵意を集めている。私たちを逃がすために。
私たちはじりじりと後退した。
前にいるタイタンアントは、こちらへ来ようとするたびに石で視線を逸らされる。ゴブリンたちが高い位置から音を立てて引きつけていた。雑なようで、妙に噛み合っていた。
その中でも、片耳のゴブリンだけ一際目立った。
周りより前へ出る。
逃げるのも遅い。
危ない場所にばかりいる。
その背を目で追っていたとき、後ろで靴底が鳴った。
見ると記録係が濡れた床に足を取られた。
タイタンアントが好機とばかりに顎をそこに向けた。
「伏せろ!」
私が盾を向けるより早く、片耳が飛び込んだ。
小さな体が、タイタンアントの脚にぶつかる。狙いは脚の節だった。骨片のような刃を差し込み、全体重をかけて捻る。
タイタンアントの動きが歪んだ。
その隙に、若い騎士が記録係の襟を掴んで引き戻す。
「押せ!」
私は盾を押しつけた。
片耳はすぐに離れようとした。だが、タイタンアントの顎が追いつく。片耳の腕から血が跳ねた。
それでも、片耳は声を上げなかった。
腕を押さえることもしない。ただ、転がるように距離を取り、こちらを見る。逃げろ、と言っているようだった。
「下がれ!」
私はもう一度叫んだ。
隊は狭い脇道へ入った。だが、戦闘は終わらない。
奥から、かちかちと音が聞こえてきた。
挟まれた。
前方の裂け目から、一匹が現れる。タイタンアントにしては小さい。だが、十分すぎる脅威だった。記録係が後ずさり、背中を壁にぶつけるのが見えた。
逃げ場がない。
私が覚悟を決めて前へ出ようとした瞬間、足元の石が崩れた。
床の一部が抜けかけていたのだ。気づくのが遅れた。
重心が流れる。盾が遅れる。
相手の顎が、私の右側から迫った。
防げない。
そう思った瞬間、小さな影が私の前へ落ちた。
片耳だった。
腕から血を流したまま、私とタイタンアントの間に入った。骨片を両手で握り、顎を受けようとする。
無茶だ。体格が違いすぎる。
相手の顎が骨片ごと片耳を弾き飛ばした。小さな体が壁に叩きつけられ、床へ落ちた。
ただ、私への直撃は逸れた。
盾を立て直す時間ができた。
「くっ!」
私は踏み込み、盾の角で相手の顎を叩き上げた。若い騎士が横から剣を入れる。節の隙間に刃が入った。
その瞬間、ゴブリンたちが一斉に動いた。
上から粉が落ちる。
灰色の粉だった。タイタンアントの脚が止まり、嫌がるように体を揺らし、後退する。
やがて、タイタンアントたちは、顎を鳴らしながら暗がりへひいていった。
音が遠のくまで、誰も武器を下ろさなかった。
音が去ってすぐ、私は片耳のゴブリンのもとへ近づいた。
手を伸ばしかけて、止める。
これ以上近づけば怯えさせるかもしれない。彼らから見れば、私たちも十分に危険な相手だろう。
片耳は壁にもたれ、浅く息をしていた。腕の傷は深い。
それでも私が近づくと、逃げようとした。
「動くな」
言葉は通じないだろう。
だから、私は両手を開いて見せた。
敵意はない。
そう伝えたつもりだった。
片耳が私を見る。黄土色の目だった。怯えも警戒もある。けれど、それだけではないと感じる。
そのとき、背後で、重い音がした。
「おい!」
若い騎士が声を上げる。
振り返ると記録係の足に、赤黒い線が走っているのが見えた。
「毒です。早く処置しないと」
私は腰の薬入れに手を伸ばした。
回復薬はある。だが血を止めるのがせいぜいだ。毒を完全に止められるほど強くはない。
ここから彼を運んだとして、地上まで保つかどうか。
その思考の一瞬だった。
片耳が動いた。
自分の腕を押さえながら、腰の革袋を探る。出てきたのは、小さな瓶だった。
濁った琥珀色の液体が入っている。
それは、迷宮産の回復薬だった。
市で買えば高い。騎士団でも数を揃えられない。冒険者が命綱として持つものだった。
片耳はそれを、自分には使わなかった。
記録係へ近づく。
若い騎士が剣を上げかけた。
「待て」
私の声が通路に響く。
片耳はびくりとした。それでも、逃げなかった。瓶を記録係の傷口へ向ける。少量を傷へ垂らし、残りを記録係の口元へ押し当てる。
記録係はうめいたが、すぐに息が整っていく。
脛を覆っていた黒ずみが、薄れていく。
「……効いている」
案内人の声が掠れた。
片耳は空になった瓶を見た。
それから、自分の傷を見た。
その仕草だけで十分だった。
片耳は、自分に使うはずだったものを記録係に使ったのだ。
私は眼の前の光景が信じられなくて、思わず頭を振った。
眼の前にいるのは紛うことなき、ゴブリンだ。
ゴブリンのはずだ。
だが、目の前にいる魔物は、私の部下を助けた。
敵ではないのか。少なくとも今この場では。
私は、ゆっくりと剣を鞘に収めた。
片耳がこちらを見る。
私はできるだけ丁寧に、胸に手を当て頭を下げた。
簡単な、礼だった。言葉が通じない相手へ、私ができる一番はっきりしたものだった。
片耳はそんな私を不思議そうにしばらく見ていた。
そして、ゆっくりと、ぎこちなく、真似をした。
小さな手を胸に当てる。
少しだけ頭を下げる。
その動きは不格好で、丁寧だった。
それを見てしまって、胸の奥に、何かが残った。
これまで経験したことのないものだった。
ふと奥で、ほかのゴブリンが短く鳴いた。
片耳が振り返る。仲間が撤退を促しているのだろう。
片耳は空になった瓶をしまい、よろめきながら足を向けた。
「待って」
言葉は通じない。
それでも私は呼び止めていた。
私は腰の薬入れから、小さな瓶を取り出す。
標準支給の回復薬。
迷宮産ほど強くはない。けれど、裂けた傷を塞ぎ、出血を抑えるくらいはできる。
人間用として支給されているものだから、ゴブリンに効くかはわからない。
それでも、何もしないよりはいい。
外套の端を裂く。片耳の傷を指し、瓶と布を見せる。
片耳は一歩下がった。私は動かなかった。
無理に近づかない。信頼など、まだない。
しばらく、互いに動かなかった。
やがて片耳は、遠慮しがちに腕を出した。
近づいていい、という意味だと私は受け取った。
できるだけゆっくり近づき、傷口に回復薬を垂らす。血の勢いが弱くなる。
私は傷口に外套の布を巻いた。巻き終えて、手を離す。
片耳は布を見た。次に私を見た。
そしてまた、胸に手を当てた。今度は、さっきより自然だった。
暗がりの奥で、別のゴブリンがまた、短く鳴いたのが聞こえた。片耳はそちらを振り返り、布を巻いた腕をかばいながら私に背を向ける。
一度だけこちらを見てから、ゆっくりと暗がりに消えていった。
私はその場から、動けずに居た。
「リディア様」
若い騎士の声で、我に返った。
「……記録係を運べ。地上へ戻るぞ」
「ゴブリンは」
若い騎士が言いかける。私は彼を見た。
「見たものだけを記録しろ」
隊長の言葉を、そのまま返す。
「知性あるゴブリンの群れに遭遇。こちらへの敵対行動なし。中層種のタイタンアントから調査隊を救助」
若い騎士は何か言いたそうにしたが、結局黙った。
迷宮の暗がり。
石の壁の向こう。
そのどこかに、知性のあるゴブリンがいる。
胸の奥が落ち着かなかった。
私たちはゴブリンに救われた。
自分の傷を放って記録係に薬を使ったこと。
私の前に飛び込んで、タイタンアントの顎を逸らしたこと。
不器用に、それでも丁寧に礼をしていたこと。
私はそれを、報告書にどう書けばいいのかわからなかった。
ただ一つだけ、はっきりしていた。
あれを、ただのゴブリンとして扱ってはいけない。
少なくとも私はもう、討伐対象として見れなかった。




