↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
41/61

40 リディア2

 若い騎士が奥歯を噛んだ。


 理由は聞かなくても分かった。目の前の低い影は討伐対象だ。迷宮で見つければ迷わず剣を向ける相手。その相手に背中を預けろと言われて、すぐ納得できるはずがない。


 ただ、今はそれしか生き残る道がない。


 ゴブリンの一体が、壁の上から石を落とした。タイタンアントが顔を上げる。その瞬間、別のゴブリンが床を蹴って音を立てた。相手の顎がそちらへ向く。


 敵意を集めている。私たちを逃がすために。


 私たちはじりじりと後退した。


 前にいるタイタンアントは、こちらへ来ようとするたびに石で視線を逸らされる。ゴブリンたちが高い位置から音を立てて引きつけていた。雑なようで、妙に噛み合っていた。


 その中でも、片耳のゴブリンだけ一際目立った。


 周りより前へ出る。

 逃げるのも遅い。

 危ない場所にばかりいる。


 その背を目で追っていたとき、後ろで靴底が鳴った。

 見ると記録係が濡れた床に足を取られた。


 タイタンアントが好機とばかりに顎をそこに向けた。


「伏せろ!」


 私が盾を向けるより早く、片耳が飛び込んだ。


 小さな体が、タイタンアントの脚にぶつかる。狙いは脚の節だった。骨片のような刃を差し込み、全体重をかけて捻る。


 タイタンアントの動きが歪んだ。

 その隙に、若い騎士が記録係の襟を掴んで引き戻す。


「押せ!」


 私は盾を押しつけた。


 片耳はすぐに離れようとした。だが、タイタンアントの顎が追いつく。片耳の腕から血が跳ねた。


 それでも、片耳は声を上げなかった。

 腕を押さえることもしない。ただ、転がるように距離を取り、こちらを見る。逃げろ、と言っているようだった。


「下がれ!」


 私はもう一度叫んだ。


 隊は狭い脇道へ入った。だが、戦闘は終わらない。

 奥から、かちかちと音が聞こえてきた。


 挟まれた。


 前方の裂け目から、一匹が現れる。タイタンアントにしては小さい。だが、十分すぎる脅威だった。記録係が後ずさり、背中を壁にぶつけるのが見えた。


 逃げ場がない。

 私が覚悟を決めて前へ出ようとした瞬間、足元の石が崩れた。


 床の一部が抜けかけていたのだ。気づくのが遅れた。

 重心が流れる。盾が遅れる。


 相手の顎が、私の右側から迫った。


 防げない。

 そう思った瞬間、小さな影が私の前へ落ちた。


 片耳だった。


 腕から血を流したまま、私とタイタンアントの間に入った。骨片を両手で握り、顎を受けようとする。


 無茶だ。体格が違いすぎる。


 相手の顎が骨片ごと片耳を弾き飛ばした。小さな体が壁に叩きつけられ、床へ落ちた。


 ただ、私への直撃は逸れた。

 盾を立て直す時間ができた。


「くっ!」


 私は踏み込み、盾の角で相手の顎を叩き上げた。若い騎士が横から剣を入れる。節の隙間に刃が入った。


 その瞬間、ゴブリンたちが一斉に動いた。

 上から粉が落ちる。


 灰色の粉だった。タイタンアントの脚が止まり、嫌がるように体を揺らし、後退する。


 やがて、タイタンアントたちは、顎を鳴らしながら暗がりへひいていった。


 音が遠のくまで、誰も武器を下ろさなかった。


 音が去ってすぐ、私は片耳のゴブリンのもとへ近づいた。

 

 手を伸ばしかけて、止める。

 これ以上近づけば怯えさせるかもしれない。彼らから見れば、私たちも十分に危険な相手だろう。


 片耳は壁にもたれ、浅く息をしていた。腕の傷は深い。

 それでも私が近づくと、逃げようとした。


「動くな」


 言葉は通じないだろう。

 だから、私は両手を開いて見せた。


 敵意はない。

 そう伝えたつもりだった。


 片耳が私を見る。黄土色の目だった。怯えも警戒もある。けれど、それだけではないと感じる。


 そのとき、背後で、重い音がした。


「おい!」


 若い騎士が声を上げる。

 振り返ると記録係の足に、赤黒い線が走っているのが見えた。


「毒です。早く処置しないと」


 私は腰の薬入れに手を伸ばした。

 回復薬はある。だが血を止めるのがせいぜいだ。毒を完全に止められるほど強くはない。


 ここから彼を運んだとして、地上まで保つかどうか。


 その思考の一瞬だった。


 片耳が動いた。


 自分の腕を押さえながら、腰の革袋を探る。出てきたのは、小さな瓶だった。

 濁った琥珀色の液体が入っている。


 それは、迷宮産の回復薬だった。


 市で買えば高い。騎士団でも数を揃えられない。冒険者が命綱として持つものだった。


 片耳はそれを、自分には使わなかった。

 記録係へ近づく。


 若い騎士が剣を上げかけた。


「待て」


 私の声が通路に響く。

 片耳はびくりとした。それでも、逃げなかった。瓶を記録係の傷口へ向ける。少量を傷へ垂らし、残りを記録係の口元へ押し当てる。


 記録係はうめいたが、すぐに息が整っていく。

 脛を覆っていた黒ずみが、薄れていく。


「……効いている」


 案内人の声が掠れた。


 片耳は空になった瓶を見た。

 それから、自分の傷を見た。


 その仕草だけで十分だった。

 

 片耳は、自分に使うはずだったものを記録係に使ったのだ。


 私は眼の前の光景が信じられなくて、思わず頭を振った。


 眼の前にいるのは紛うことなき、ゴブリンだ。

 ゴブリンのはずだ。


 だが、目の前にいる魔物は、私の部下を助けた。


 敵ではないのか。少なくとも今この場では。


 私は、ゆっくりと剣を鞘に収めた。


 片耳がこちらを見る。


 私はできるだけ丁寧に、胸に手を当て頭を下げた。

 簡単な、礼だった。言葉が通じない相手へ、私ができる一番はっきりしたものだった。


 片耳はそんな私を不思議そうにしばらく見ていた。


 そして、ゆっくりと、ぎこちなく、真似をした。


 小さな手を胸に当てる。

 少しだけ頭を下げる。


 その動きは不格好で、丁寧だった。


 それを見てしまって、胸の奥に、何かが残った。

 これまで経験したことのないものだった。


 ふと奥で、ほかのゴブリンが短く鳴いた。


 片耳が振り返る。仲間が撤退を促しているのだろう。

 片耳は空になった瓶をしまい、よろめきながら足を向けた。


「待って」


 言葉は通じない。

 それでも私は呼び止めていた。


 私は腰の薬入れから、小さな瓶を取り出す。


 標準支給の回復薬。

 迷宮産ほど強くはない。けれど、裂けた傷を塞ぎ、出血を抑えるくらいはできる。

 人間用として支給されているものだから、ゴブリンに効くかはわからない。


 それでも、何もしないよりはいい。

 外套の端を裂く。片耳の傷を指し、瓶と布を見せる。


 片耳は一歩下がった。私は動かなかった。

 無理に近づかない。信頼など、まだない。


 しばらく、互いに動かなかった。


 やがて片耳は、遠慮しがちに腕を出した。

 近づいていい、という意味だと私は受け取った。


 できるだけゆっくり近づき、傷口に回復薬を垂らす。血の勢いが弱くなる。


 私は傷口に外套の布を巻いた。巻き終えて、手を離す。

 片耳は布を見た。次に私を見た。


 そしてまた、胸に手を当てた。今度は、さっきより自然だった。


 暗がりの奥で、別のゴブリンがまた、短く鳴いたのが聞こえた。片耳はそちらを振り返り、布を巻いた腕をかばいながら私に背を向ける。

 一度だけこちらを見てから、ゆっくりと暗がりに消えていった。


 私はその場から、動けずに居た。


「リディア様」


 若い騎士の声で、我に返った。


「……記録係を運べ。地上へ戻るぞ」


「ゴブリンは」


 若い騎士が言いかける。私は彼を見た。


「見たものだけを記録しろ」


 隊長の言葉を、そのまま返す。


「知性あるゴブリンの群れに遭遇。こちらへの敵対行動なし。中層種のタイタンアントから調査隊を救助」


 若い騎士は何か言いたそうにしたが、結局黙った。


 迷宮の暗がり。

 石の壁の向こう。


 そのどこかに、知性のあるゴブリンがいる。


 胸の奥が落ち着かなかった。

 私たちはゴブリンに救われた。


 自分の傷を放って記録係に薬を使ったこと。

 私の前に飛び込んで、タイタンアントの顎を逸らしたこと。

 不器用に、それでも丁寧に礼をしていたこと。


 私はそれを、報告書にどう書けばいいのかわからなかった。

 

 ただ一つだけ、はっきりしていた。

 あれを、ただのゴブリンとして扱ってはいけない。


 少なくとも私はもう、討伐対象として見れなかった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。