39 リディア1
最近、迷宮都市には妙な噂が流れていた。
中層の外れで、冒険者がゴブリンに助けられたという。
石を投げて他の魔物の足を乱し、人間が逃げ切るまで追手を近づけなかった。最後には何も取らずに去ったのだという。
最初に聞いたとき、私は作り話だと思った。
冒険者は、無事に帰ってくると話を大きくする。逃げ帰った一戦も、酒場の卓を二つ回れば、あと一歩で勝てた武勇伝になる。
酒が三杯も入れば、ゴブリンが剣を振り、踊りながら見送ったことにさえなるだろう。
だから、私は聞き流した。
友好的なゴブリン。人を助ける魔物。
そんなものは、噂の中にだけいればいい。
だが数日後、その噂は笑い話では済まなくなった。
「上層第三回廊で、中層に生息しているタイタンアントの外殻が見つかった」
隊長室でそう告げられ、私は背を伸ばしたまま眉を寄せた。
「中層のタイタンアントが、ですか」
「ああ」
隊長は机上の報告書を、太い指で二度叩いた。
「外殻片、脚の節、通行の痕。協会の鑑定でも中層の種で間違いないそうだ」
「迷い込んだ一匹という可能性は」
「痕跡が多すぎる」
上層には上層の魔物がいる。油断すれば死ぬ。だが、訓練を受けた騎士や、経験のある冒険者なら対処できる相手が多い。
中層は違う。
タイタンアントは群れで動く。殻は剣を滑らせ、顎は盾の縁を噛み砕く。一匹を受けている間に、残りが脇を抜ける。
上層の狭い通路へ入り込まれれば、冒険者だけの問題では済まない。
「加えて、例の噂だ」
隊長が別の紙を引き寄せた。
「ゴブリンに助けられたという冒険者の証言、七名分。内容はおおむね一致している」
「正式な聞き取りなのですね」
「そうだ」
隊長は顔を上げた。
「上層の異変を調べろ。ゴブリンの件と結びつく証拠があれば記録しろ」
「承知しました」
「噂に形を与えるな。見たものだけを書け」
隊長の指が報告書から離れた。
「現場はお前に任せる、リディア」
「はい」
その日のうちに調査隊が組まれた。
騎士は私を含めて三名。記録係が一人。迷宮の地理に通じた協会の案内人が一人ついた。
翌朝、私たちは迷宮へ入った。
入口の詰所を過ぎると、人の声が背後へ沈んだ。ランタンの炎が細くなり、襟の内側へ冷気が入る。
歩き慣れた場所だった。
それなのに、靴音が長く続いた。
奥へ進むにつれ、通路の様子が変わってるのに気がついた。
崩れかけた床の縁に、爪で引いた跡が重なっている。踏み込めば抜ける場所ばかりだった。
散らばっているはずの小さな骨は、壁際へ寄せられていた。水路のそばには灰色の粉が撒かれ、湿った床に細い境目を作っている。
誰かが、何度も手を入れている。
そう考えた途端、通路が狭くなったように感じた。
「ここです」
案内人が足を止めた。
床に黒い欠片が落ちている。
指先ほどの大きさだったが、縁には刃のような硬さがあった。
案内人は片膝をつき、ランタンを近づけた。
「……タイタンアントの外殻です」
後ろで誰かが唾を飲んだ。
「中層種のものか」
「間違いありません」
私は灯りを先へ向けた。
白い擦れ跡が床を横切っている。壁際で二つに分かれ、さらに高い位置まで続いていた。そこにも、細い脚の先が削った跡がある。
「一匹ではなさそうだな」
記録係の筆が紙を掻いた。
その音に混じって、別のものが小さく聞こえた。
かち。
記録係の手が止まった。
かち、かちかち。
細い刃先で床を叩くような音が、曲がり角の向こうから近づいてくる。
案内人の唇から色が消えた。
「隊列を組め」
私は盾を構えた。
記録係と案内人を後ろへ入れ、騎士二人を左右につける。
暗がりの底で、黒い脚が伸びた。
節の一つひとつが光を鈍く返す。続いて丸い胴が現れ、鋏に似た顎が開いた。
タイタンアントだ。
犬ほどの胴を長い脚が支えている。顎が閉じるたび、乾いた音が鳴った。
その後ろから、二匹が這い出した。
壁の裂け目には、さらに別の脚が動いている。
「退くぞ」
私は盾を構えたまま、少しずつ後ろに下がった。
「記録係を挟め。背を向けるな」
次の瞬間、一匹が腹を低くし、床を蹴った。
盾にぶつかる。腕が肩まで押し込まれ、靴底が滑った。踏み直して押し返すと、右の裂け目から別の個体が飛び出した。
「右!」
騎士が剣を振り下ろす。
刃は外殻の上を滑り、壁へ火花を散らした。傷らしい傷もついていない。
タイタンアントはそのまま脚を伸ばし、騎士の脇を抜けようとした。後ろには記録係がいる。
私は体を入れ、盾の角を顎へ叩きつけた。
硬い手応えが肘まで返る。相手の頭が横へずれた。その隙に、正面の一匹が走り出す。
盾が軋み、左腕が痺れた。
「退路を開け!」
声を張った瞬間、何かが頭上を飛んだ。
小さな石が、タイタンアントの眼に当たる。
乾いた音を立て、相手が顔を横へ振った。続いて二つ、壁際から飛ぶ。
一つは脚の付け根へ当たり、もう一つは開いた顎の内側へ入った。
「誰だ!」
騎士が暗がりへ叫んだ。
返事はない。
それでも答えるように壁の上を、低いものが走った。
人の腰程度の背丈。それが瓦礫を蹴り、突き出した岩へ片手をつく。
ゴブリンだった。
瓦礫の陰から二体が現れた。崩れた壁の裂け目にも顔が覗き、その後ろからさらに続く。
こちらへは来ない。
ゴブリンたちは拾った石をタイタンアントへ投げた。壁を蹴り、顎が音へ向くと、もう別の場所へ散っている。
追いつかれそうになった一体が身を屈める。その頭上を別の石が越え、タイタンアントの眼を打った。顎は空を噛み、床の欠片を砕く。
「ゴブリンを攻撃するな!」
私の声に、剣を構え直した騎士が振り向いた。
「ですが、ゴブリンです!」
「今は前を見ろ!」
正しい命令かどうか、考える暇はなかった。
ゴブリンの投げた石が、タイタンアントを私たちから引き離している。後ろへ退くための道が、少しずつ開いていく。
魔物が、私たちを助けていた。




