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銀色の龍は、こちらを見たまま動かなかった。
巨大な顔を近づけ、私をじっと見ている。
「……私なの?」
問いかけると、銀龍は首を傾げた。
その仕草だけで、だいたい分かった。
私は痛みの残る両腕を抱えながら、銀龍を見上げる。
「干し肉」
鼻先が、揺れた。
「うん。間違いなく私だね」
『最低の確認方法ね』
「分かりやすいでしょ」
銀龍は不満そうに喉を鳴らした。
イリスが私の服を掴む手に力を込めた。
「マイさん、この龍は……」
「たぶん、もう私だね」
「どういうことですか」
「説明するのは難しいかも」
イリスは困った顔をした。
正しい反応だと思う。
私は壊れた馬車の壁に手をかけた。戻ったばかりの指はまだ震えている。でも、胸の奥の熱は、さっきよりずっと近い。
外へ出ると、盗賊たちはもう森の奥へ散っていた。武器も荷も捨てられている。龍に襲われたのだから当然だ。
盗賊の馬車を離れ、森の道へ戻る。
少し歩いた先に、乗合馬車があった。
乗客たちは縛られたまま震えている。護衛の一人は腕を押さえて座り込み、もう一人は気絶している。御者は泥まみれで、けれど生きていた。
私は落ちていたナイフを拾い、縄だけを切った。
手元が震える。痛みも、恐怖も、体の奥でまだ生きていた。
「大丈夫ですか」
誤魔化しながら声をかけると、御者は私を見て、それから私の後ろを見た。
そこには勿論、銀色の龍がいる。
森の影に身を低くしているつもりらしいけれど、まったく隠れられていない。銀の鱗が夕暮れを弾き、長い尾が倒木の向こうでゆっくり揺れている。
「あ、あれは……」
御者の声が掠れた。
「えっと」
私は考えた。残念ながらいい考えは浮かばない。
「たぶん、もう襲ってきません」
「たぶん?」
御者の顔がさらに青くなった。
失敗した。
「私にもよく分からないんです。ただ、盗賊を追い払ってくれましたし、今は落ち着いています」
「落ち着いている……?」
御者はもう一度、龍を見た。
龍は大人しくしているつもりなのか、ゆっくり瞬きをした。乗客の何人かが悲鳴を漏らした。
まあ、そうだよなと思う。
「ノエティアへは」
私が訊くと、御者は首を横に振った。
「無理だ」
短い答えだった。御者は続けた。
「馬は怯え切っている。車輪も歪んだ。護衛もこの有様だ。ここから先へは行けない。近くの村まで戻ってそこで兵を呼ぶか、別の馬車を待つしかない」
御者は、申し訳なさそうというより、まだ生きていることだけで精一杯という顔をしていた。
私は息を吐いた。
移動手段がなくなった。
『足ならあるじゃない』
ベルザリアが言った。
『正確に言うなら翼、かしら』
その手があったか。正確には翼だけれど。
そう決めたあと、私はイリスの方を見た。
彼女は黒い外套を握りしめて私から少し離れた場所で、ぽつりと立っていた。顔色は悪いしまだ震えてもいる。
「イリス」
「はい」
「行くあてはある?」
イリスは目を伏せた。
答えはすぐには返ってこなかった。
風が木々を揺らす。遠くで馬が鼻を鳴らす。龍が、合わせて低く喉を鳴らした。
「……ないです」
イリスは小さく言った。
「父上ももう……」
そこで言葉が途切れた。
それ以上は聞けなかった。
売り先が決まっていると言われた少女。
魔物を呼び寄せる体質。魔族。
知らないことは多い。でも、今ここで置いていける理由にはならなかった。
「じゃあ、一緒に来る?」
イリスが顔を上げる。
「私が、ですか」
「うん。神領ノエティアに行くんだけど」
「でも、私がいるとまた魔物が」
「もう来たし」
「もっと来るかもしれません」
「なんとかなるでしょ」
「危ないです」
「私も結構危ない女よ?」
イリスの目が揺れた。
「迷惑を、かけます」
「迷惑さでは私のほうが強いと思う!」
『自覚はあったのね』
「ベルザリアは黙ってて」
また声に出た。
イリスは目を丸くして、それから小さく頷いた。
「……ご迷惑でなければ」
「迷惑じゃないよ」
「たぶん、迷惑です」
「迷惑でも連れていく」
言い切ると、イリスは泣きそうな顔で、でもほんの少しだけ笑った。
「ありがとうございます、マイさん」
それから、龍の方へ一緒に歩き出した。
銀色の龍は大きな体をできるだけ低くして待っていた。気を遣っているつもりらしい。
近づくと、あらためて大きさが分かる。馬車よりずっと大きい。木よりもっと高い。
鱗は銀色で、硬そうで、夕暮れの光を淡く跳ね返している。
これに乗る。乗れるのかこれ。
「えっと」
私は銀龍を見上げた。
「神領ノエティアに行きたいんだけど、分かる?」
銀龍は考えるように首を上げ、空を見た。それから低く喉を鳴らす。
言葉はない。
でも、返事のようなものが、胸の奥に伝わってきた。
どうやら分かる、らしい。
同じ私だからだろうか、なんとなく理解できた。
「ニックネーム、いるよね」
銀龍がこちらを見た。
「マイが二人だと、ややこしいし」
『二人どころではないでしょう』
「それは言わないで」
私は銀色の鱗を見た。
夕暮れの光を弾く背中。雲の下を渡る翼。森の上を覆った、銀の龍。
「みゆき」
ふっと、そう浮かんだ。
龍が首を傾げる。
「銀色の龍だしね」
『雑につけていないかしら』
「雑でもいいの」
銀龍はしばらく私を見ていた。
それから、喉の奥で低く鳴いた。さっきまでより、柔らかい音だった。
どうやら気に入ったらしい。
「じゃあ、みゆきって呼ぶね」
私がもう一度呼ぶと、銀龍はゆっくり頭を下げた。
乗れ、と言っているみたいだった。
ただ、その途中で、みゆきは急に喉を詰まらせたように身を震わせた。銀の首がわずかに曲がり、腹の奥で低い音が鳴る。
「大丈夫?」
みゆきは困ったように目を細めた。
『星喰いの鎖まで飲み込んだからでしょうね』
ベルザリアが呆れた声で言った。
『あれは美味しくなかったわ』
「食べたことあるんだ……」
みゆきは小さく唸った。
御者たちは、近くの村へ戻る準備を始めていた。私は、自分たちはここで別れるとだけ伝えた。
みゆきの背中へ登るのは簡単ではなかった。銀の鱗は硬く、滑る。みゆきが翼を低くしてくれなければ、最初の一歩で落ちていたと思う。
私はイリスを先に押し上げ、自分もどうにか背中へ跨がった。
高い。
地面が遠い。
「これ、落ちたら大変だ」
『落ちなければいいでしょう』
みゆきが首だけこちらへ向ける。
大丈夫、と言われた気がした。
「ゆっくりね。最初はゆっくり」
みゆきは翼を広げた。
森がざわめき、風が巻き上がる。イリスが私の服を掴む。私はイリスを片腕で支え、もう片方の手で銀の鱗にしがみついた。
次の瞬間、地面が離れた。
胃が落ちる。
風が顔を叩く。
森が下へ沈む。
空が、開ける。
夕暮れの光の中、みゆきは大きく羽ばたいた。倒木も、乗合馬車も、森の道も、あっという間に小さくなる。
神領ノエティアへ。
馬車ではなく、銀の龍の背に乗って。
めちゃくちゃなスピードで。ありえない高さで。
私はイリスを抱え直し、必死に鱗へしがみついた。
『よかったじゃない。直通馬車より速そうよ』
「全然よくない!」
私の叫びは、風に持っていかれた。
みゆきが喉を鳴らす。
笑っているみたいだった。
一章 了




