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 空そのものが潰れたみたいだった。


 銀色の龍が森の上へ降りる。翼が一度大きく打たれただけで、木々の梢がまとめて伏せた。

 馬が一斉にいななく。車輪が跳ね、私たちの馬車も横から殴られたみたいに傾いた。


 外で何かが壊れる音がした。


「伏せて!」


 私は叫んだ。


 イリスはすでに身を丸め、頭を手でかばうようにしていた。


 次の瞬間、龍の爪が馬車のすぐ横を削った。木の壁が割れ、格子がひしゃげる。隙間から、銀の鱗と、巨大な影と、舞い上がる土が見えた。


 盗賊たちは完全に混乱していた。


「逃げろ!」

「馬を出せ!」

「撃て、撃て!」


 弓の音。

 怒鳴り声。

 悲鳴。


 矢が龍の鱗に当たる。けれど、意味がなかった。乾いた音を立てて弾かれ、地面へ落ちる。龍は煩わしそうに首を振っただけだった。


 その目が、こちらを向く。

 私ではない。

 彼女を見ていた。


 イリスの体がびくりと震えた。黒い靄のようなものが、彼女の周りで濃くなる。

 龍はそれを見ていた。匂いを嗅ぐみたいに、長い首を低く下げてくる。


「マイさん」


 イリスの声がかすれた。


「逃げてください」


「いやだ」


 そう言いながら、私は手首を振った。


 重い。

 力が出ない。


 今の私は何もできない。それでも、何もしないわけにはいかない。


『無駄よ』


 ベルザリアが言った。


『星喰いの鎖は、力を沈めるためのものよ。力任せに暴れても、外せないわ』


「じゃあどうするの」


『どうしようもできないわ』


 龍の爪が、馬車の後ろを掴んだ。


 木が悲鳴を上げ、壁が裂ける。馬車が半分崩れ、外の赤い光が差し込んだ。イリスが諦めたように目を閉じる。


 できることを探す。


 手は縛られている。

 力はない。


 でも、体は動く。


 龍の口が近づいた。牙が並んでいる。一本一本が短剣みたいだった。ぬるい風が吹き込んでくる。奥の喉だけがやけに暗かった。


 狙いはイリス。

 それだけは、はっきりしていた。


「だめ」


『あなた、何をする気よ』


 ベルザリアの声が低くなる。


 答えている暇はなかった。


 すぐに龍の顎が馬車へ突っ込んできた。

 私はイリスの前へ体を滑り込ませる。


 次の瞬間、前に出した両腕が、枷ごと消えた。

 

 黒い輪が砕ける音と、骨が潰れる音が混ざる。肌が裂け、引きちぎられる。

 痛みは遅れて来た。両肩から先がなくなっていると理解した瞬間、視界が白く跳ねた。


「あ」


 声が漏れた。


 血が噴き出した。床に赤が落ちる。イリスが悲鳴を上げた。

 私は倒れそうになって、支える手もなく膝から崩れた。息ができない。痛い、という言葉では足りない。


『マイの馬鹿!』


 ベルザリアが叫んだ。

 怒声だった。

 焦っていた。


『何をしているのよ!』


「……庇ったつもりだけど」


『見ればわかるわよ!』


 龍が首を引く。

 その口の端に、私の腕があった。


 両腕と鎖。


 龍はそれを噛み砕き、飲み込んだ。銀の喉が大きく動く。


 胃の奥がひっくり返りそうになる。けれど、吐く余裕もなかった。


 そして、その瞬間、奇妙な静けさが落ちた。


 龍の動きが、止まった。


 外の盗賊たちの声はまだ続いている。馬は暴れていし、木は軋んでいる。

 なのに、銀龍だけが止まっている。巨大な瞳が、ゆっくりと瞬いた。


 何かを探している。

 何かに驚いている。

 何かを思い出そうとしている。


 痛みの中で、私は息を吸った。


 肩口が熱くなる。

 血が噴き出した傷口で、肉が蠢いた。


 骨が伸び、筋が編まれ、皮膚が張る。

 両腕が戻っていく。


 胸の奥の炉に、風が入った。


 さっきまで濡れた布で覆われていた熱が、息を吹き返す。戻ったばかりの手が、震えながら床を掴んだ。


「マイさん、腕、腕が」


「大丈夫、みたい」


 少しだけ強がった。


「たぶん、戻った」


「戻ったって」


 イリスが泣きそうな顔で聞き返した。

 けれど、説明してられない。


 龍が、さらに低く首を下げた。さっきまでの飢えた目ではない。銀の瞳が、私の顔と、戻った両腕と、イリスを順に見た。


 そして、喉の奥で低く鳴いた。


 威嚇とは違う。困っているみたいな音だった。


『……まさか』


 ベルザリアが言った。

 その声から、怒りはもう抜けていた。


『マイ、あなた本当に気持ち悪いわね』


「気持ち悪いなんて言わないでよ」


『言うわよ。両腕を食わせただけで、あの龍にまで入り込んだんだから』


 私は痛みで霞む目をこすった。


 龍はまだこちらを見ている。


 龍の瞳。


 その奥に、ほんの一瞬だけ、見覚えのある戸惑いが浮かんだ気がした。


 私みたいな。

 いや、私が、初めて知らない体で目を覚ましたときみたいな。


「……もしかして」


 龍が首を傾げる。

 その仕草が、あまりにも人間くさかった。


 外で盗賊の一人が叫んだ。


「今だ! 殺せ!」


 矢が飛ぶ。


 龍の首に当たって弾かれた。龍はびくりと肩を揺らし、それから盗賊のほうを見た。怒りが生まれた。


 まずい。

 龍が完全に暴れれば、盗賊も馬車も、私たちもまとめて潰れる。


 私は戻ったばかりの右手を握った。まだ指が震える。でも、熱は戻っていた。


「待って!」


 私は龍に向かって叫んだ。

 龍はこちらを見た。


 通じるかどうかなんてわからない。


「落ち着いて。お願い」


 銀龍は低く喉を鳴らした。


 分かったのか、分かっていないのか。

 でも、暴れることはしなかった。


 私は戻ったばかりの両腕を抱えながら、息を吐いた。

 イリスは私の服を掴んでいる。外では盗賊たちが逃げる声を上げ始めていた。


 龍の瞳が、もう一度私を映す。


 その奥に、確かに別のものが生まれていた。


 私がまた、増えた。


 確信が、血の匂いよりも強く胸に残った。

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