37
空そのものが潰れたみたいだった。
銀色の龍が森の上へ降りる。翼が一度大きく打たれただけで、木々の梢がまとめて伏せた。
馬が一斉にいななく。車輪が跳ね、私たちの馬車も横から殴られたみたいに傾いた。
外で何かが壊れる音がした。
「伏せて!」
私は叫んだ。
イリスはすでに身を丸め、頭を手でかばうようにしていた。
次の瞬間、龍の爪が馬車のすぐ横を削った。木の壁が割れ、格子がひしゃげる。隙間から、銀の鱗と、巨大な影と、舞い上がる土が見えた。
盗賊たちは完全に混乱していた。
「逃げろ!」
「馬を出せ!」
「撃て、撃て!」
弓の音。
怒鳴り声。
悲鳴。
矢が龍の鱗に当たる。けれど、意味がなかった。乾いた音を立てて弾かれ、地面へ落ちる。龍は煩わしそうに首を振っただけだった。
その目が、こちらを向く。
私ではない。
彼女を見ていた。
イリスの体がびくりと震えた。黒い靄のようなものが、彼女の周りで濃くなる。
龍はそれを見ていた。匂いを嗅ぐみたいに、長い首を低く下げてくる。
「マイさん」
イリスの声がかすれた。
「逃げてください」
「いやだ」
そう言いながら、私は手首を振った。
重い。
力が出ない。
今の私は何もできない。それでも、何もしないわけにはいかない。
『無駄よ』
ベルザリアが言った。
『星喰いの鎖は、力を沈めるためのものよ。力任せに暴れても、外せないわ』
「じゃあどうするの」
『どうしようもできないわ』
龍の爪が、馬車の後ろを掴んだ。
木が悲鳴を上げ、壁が裂ける。馬車が半分崩れ、外の赤い光が差し込んだ。イリスが諦めたように目を閉じる。
できることを探す。
手は縛られている。
力はない。
でも、体は動く。
龍の口が近づいた。牙が並んでいる。一本一本が短剣みたいだった。ぬるい風が吹き込んでくる。奥の喉だけがやけに暗かった。
狙いはイリス。
それだけは、はっきりしていた。
「だめ」
『あなた、何をする気よ』
ベルザリアの声が低くなる。
答えている暇はなかった。
すぐに龍の顎が馬車へ突っ込んできた。
私はイリスの前へ体を滑り込ませる。
次の瞬間、前に出した両腕が、枷ごと消えた。
黒い輪が砕ける音と、骨が潰れる音が混ざる。肌が裂け、引きちぎられる。
痛みは遅れて来た。両肩から先がなくなっていると理解した瞬間、視界が白く跳ねた。
「あ」
声が漏れた。
血が噴き出した。床に赤が落ちる。イリスが悲鳴を上げた。
私は倒れそうになって、支える手もなく膝から崩れた。息ができない。痛い、という言葉では足りない。
『マイの馬鹿!』
ベルザリアが叫んだ。
怒声だった。
焦っていた。
『何をしているのよ!』
「……庇ったつもりだけど」
『見ればわかるわよ!』
龍が首を引く。
その口の端に、私の腕があった。
両腕と鎖。
龍はそれを噛み砕き、飲み込んだ。銀の喉が大きく動く。
胃の奥がひっくり返りそうになる。けれど、吐く余裕もなかった。
そして、その瞬間、奇妙な静けさが落ちた。
龍の動きが、止まった。
外の盗賊たちの声はまだ続いている。馬は暴れていし、木は軋んでいる。
なのに、銀龍だけが止まっている。巨大な瞳が、ゆっくりと瞬いた。
何かを探している。
何かに驚いている。
何かを思い出そうとしている。
痛みの中で、私は息を吸った。
肩口が熱くなる。
血が噴き出した傷口で、肉が蠢いた。
骨が伸び、筋が編まれ、皮膚が張る。
両腕が戻っていく。
胸の奥の炉に、風が入った。
さっきまで濡れた布で覆われていた熱が、息を吹き返す。戻ったばかりの手が、震えながら床を掴んだ。
「マイさん、腕、腕が」
「大丈夫、みたい」
少しだけ強がった。
「たぶん、戻った」
「戻ったって」
イリスが泣きそうな顔で聞き返した。
けれど、説明してられない。
龍が、さらに低く首を下げた。さっきまでの飢えた目ではない。銀の瞳が、私の顔と、戻った両腕と、イリスを順に見た。
そして、喉の奥で低く鳴いた。
威嚇とは違う。困っているみたいな音だった。
『……まさか』
ベルザリアが言った。
その声から、怒りはもう抜けていた。
『マイ、あなた本当に気持ち悪いわね』
「気持ち悪いなんて言わないでよ」
『言うわよ。両腕を食わせただけで、あの龍にまで入り込んだんだから』
私は痛みで霞む目をこすった。
龍はまだこちらを見ている。
龍の瞳。
その奥に、ほんの一瞬だけ、見覚えのある戸惑いが浮かんだ気がした。
私みたいな。
いや、私が、初めて知らない体で目を覚ましたときみたいな。
「……もしかして」
龍が首を傾げる。
その仕草が、あまりにも人間くさかった。
外で盗賊の一人が叫んだ。
「今だ! 殺せ!」
矢が飛ぶ。
龍の首に当たって弾かれた。龍はびくりと肩を揺らし、それから盗賊のほうを見た。怒りが生まれた。
まずい。
龍が完全に暴れれば、盗賊も馬車も、私たちもまとめて潰れる。
私は戻ったばかりの右手を握った。まだ指が震える。でも、熱は戻っていた。
「待って!」
私は龍に向かって叫んだ。
龍はこちらを見た。
通じるかどうかなんてわからない。
「落ち着いて。お願い」
銀龍は低く喉を鳴らした。
分かったのか、分かっていないのか。
でも、暴れることはしなかった。
私は戻ったばかりの両腕を抱えながら、息を吐いた。
イリスは私の服を掴んでいる。外では盗賊たちが逃げる声を上げ始めていた。
龍の瞳が、もう一度私を映す。
その奥に、確かに別のものが生まれていた。
私がまた、増えた。
確信が、血の匂いよりも強く胸に残った。




