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36

 馬車の中は静かだった。


 外からは盗賊たちの声が聞こえる。


 私は手首を動かした。

 黒い枷が、重い。

 ぬかるみに指を突っ込んだみたいに、感触がぼやけた。


『無理に動かそうとしないことね』


 ベルザリアが言った。


「これ外せないの?」


『内側から外せるなら、何百年も繋がれていないわ』


 よく見ればベルザリアが、あの部屋で繋がれていたものと同じだった。


 しばらく外そうと頑張ってみたけれど、無駄に体力を減らすだけだった。

 私は諦め、馬車の奥にいる少女へ目を向ける。


 少女は私から視線を外さないでいた。黒い外套の下で、細い指がぎゅっと布を握っている。


「大丈夫?」


 私が訊くと、少女は遅れて首を縦に振った。


「今は、大丈夫です」


「今は、なんだね」


「はい。すぐに怪我をするので」


 私は瞬きを返した。


「怪我をする予定でもあるの?」


「はい」


 少女は、外套の裾を握り直した。


「転んだり、物が落ちてきたり、魔物が寄ってきたりして、またすぐに怪我をすると思います」


「それはなんというか、大変だね」


「大変です」


 素直なものいいだった。


「あなたは、どうして捕まったの?」


 私が訊くと、少女は口を閉じた。


「ごめん。言いたくないなら大丈夫だよ」


「……私は珍しい種族だから」


 少女は小さく答えた。


「人間じゃないの?」


「はい。人族ではないです」


 少女はうつむいたまま続ける。


「私は見ての通り、魔族です」


 その言葉を聞いた瞬間、頭の奥のベルザリアが反応した。


『珍しいわね。美味しくないから私は興味ないけれど』


「なんでも味基準なんだ」


 つい声に出してしまった。

 少女がびくりとする。


「あ、ごめん。独り言」


「そうですか」


 納得したのか、していないのか、少女は曖昧に頷いた。


 そしてまた、静寂が訪れた。

 そこに、近づいてくる盗賊たちの声だけが、静かに響いた。


「赤髪は奥に入れたか」


「ああ。枷もはめた」


「なら触るなよ。傷をつけるなって話だ」


「もう一匹は?」


「角つきはそのままでいい。どうせ売り先は決まってる」


 少女の肩が震えた。


 もう一匹。

 人ではなく獣みたいに数える言い方だった。


 私はその言い方に、腹が立った。


『怒っているの?』


「言い方が気に食わない」


『なら殺せばよかったのに』


「それとこれとは別だよ」


『面倒ね』


 馬車が動き出した。


 がくん、と大きく揺れて、私は壁に肩をぶつける。少女も倒れかけたので、重い手を伸ばして、どうにか彼女を支える。


「ご、ごめんなさい」


「気にしないで」


 言い切ると、少女は薄紫の目を丸くした。


 馬車は森の奥へ進んでいく。車輪の音が、さっき乗っていた乗合馬車よりずっと荒かった。


「名前、聞いてもいい?」


 私が訊くと、少女は背筋を伸ばした。


「イリスです」


 まっすぐ答えが返ってきた。


「いい名前だね」


「私もそう思います」


 その声は小さいのに、はっきりとしていた。

 イリスは笑うと、ずいぶん幼く見えた。


「私はマイ」


「マイさん」


「さんはいらないよ」


「でも、年上の方ですし」


「たぶんそんなに変わらないよ」


「それでも、マイさんです」


「じゃあ好きに呼んで」


「はい、マイさん」


 意志の強さに笑いそうになった。


 そのとき、馬車の外で盗賊の一人が怒鳴った。


「急げ。もうすぐ日が落ちるぞ」


「これ以上速度を上げられるかよ。荷が増えたんだぞ」


「文句言うな。今日中に赤髪を届ければ一生食うに困らない額貰えるんだ。さっさと進め」


 盗賊たちは私を、明らかに知っている口ぶりだった。

 ただの盗賊じゃない。私のことを知っていて、待ち伏せたのだと思えた。


『次は迷わず、容赦なく殺しなさい』


 答えなかった。

 答えられなかった。

 私はまだ、ただの女子高生のつもりだった。


 悪人だろうと、人の命に手をかける自分を、うまく想像できない。

 それでも、この世界で、元の世界に戻るためにはいつか、最悪の選択を選ぶ必要があるのかもしれない。


 考え込んでいると、馬車の奥で、イリスが顔を上げるのが見えた。


「……来ます」


 イリスの声が、さっきより大きかった。


「何か、来ます」


 外の盗賊たちは、まだ談笑していた。馬車は変わらず揺れている。車輪の音、馬の息、男たちの悪態、森の枝が擦る音。


 その中に、奥に、低い音が混じった。


 遠くの空気が、押し潰されるような音。


『……真上ね』


 ベルザリアが言った。


 次の瞬間、馬が狂ったように嘶いた。


 馬車が大きく傾く。私は床に手をつこうとしたけれど、うまく受け身が取れなかった。肩から壁にぶつかる。イリスが悲鳴を飲み込む。


 外で盗賊が叫んだ。


「何だ!」


「空だ! 上を見ろ!」


 屋根の隙間から、一瞬だけ光が消えた。


 何かが空を塞いだのだ。


 続いて、凄まじい風が馬車を叩いた。布が裂け、木が軋む。盗賊たちの怒鳴り声が悲鳴に変わる。


 私は裂けた屋根の隙間から外を見た。


 夕暮れの空を、銀色の影が横切っていた。


 大きい。

 鳥なんかじゃない。

 馬車よりも、木よりも、ずっと大きい。


 銀の鱗が傾いた日を弾き、長い翼が森の上を覆う。首がしなり、鋭い爪が空気を裂いた。遠目でもわかった。あれは、こちらを見ている。


 イリスが震える声で呟いた。


「ごめんなさい。ごめんなさい」


「どうしたの」


「私のせいなんです」


 銀の影が旋回した。


 馬車の中の空気が、黒く重く沈む。イリスの周りに漂っていた薄い靄が、さっきより濃く見えた。


「魔物は、私を食べたがるんです」


 イリスは膝を抱えたまま、小さく続けた。


「私を食べると、強くなれるから」


 その言葉が終わるより早く、銀色の龍が、森の上から降ってきた。

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