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馬車の中は静かだった。
外からは盗賊たちの声が聞こえる。
私は手首を動かした。
黒い枷が、重い。
ぬかるみに指を突っ込んだみたいに、感触がぼやけた。
『無理に動かそうとしないことね』
ベルザリアが言った。
「これ外せないの?」
『内側から外せるなら、何百年も繋がれていないわ』
よく見ればベルザリアが、あの部屋で繋がれていたものと同じだった。
しばらく外そうと頑張ってみたけれど、無駄に体力を減らすだけだった。
私は諦め、馬車の奥にいる少女へ目を向ける。
少女は私から視線を外さないでいた。黒い外套の下で、細い指がぎゅっと布を握っている。
「大丈夫?」
私が訊くと、少女は遅れて首を縦に振った。
「今は、大丈夫です」
「今は、なんだね」
「はい。すぐに怪我をするので」
私は瞬きを返した。
「怪我をする予定でもあるの?」
「はい」
少女は、外套の裾を握り直した。
「転んだり、物が落ちてきたり、魔物が寄ってきたりして、またすぐに怪我をすると思います」
「それはなんというか、大変だね」
「大変です」
素直なものいいだった。
「あなたは、どうして捕まったの?」
私が訊くと、少女は口を閉じた。
「ごめん。言いたくないなら大丈夫だよ」
「……私は珍しい種族だから」
少女は小さく答えた。
「人間じゃないの?」
「はい。人族ではないです」
少女はうつむいたまま続ける。
「私は見ての通り、魔族です」
その言葉を聞いた瞬間、頭の奥のベルザリアが反応した。
『珍しいわね。美味しくないから私は興味ないけれど』
「なんでも味基準なんだ」
つい声に出してしまった。
少女がびくりとする。
「あ、ごめん。独り言」
「そうですか」
納得したのか、していないのか、少女は曖昧に頷いた。
そしてまた、静寂が訪れた。
そこに、近づいてくる盗賊たちの声だけが、静かに響いた。
「赤髪は奥に入れたか」
「ああ。枷もはめた」
「なら触るなよ。傷をつけるなって話だ」
「もう一匹は?」
「角つきはそのままでいい。どうせ売り先は決まってる」
少女の肩が震えた。
もう一匹。
人ではなく獣みたいに数える言い方だった。
私はその言い方に、腹が立った。
『怒っているの?』
「言い方が気に食わない」
『なら殺せばよかったのに』
「それとこれとは別だよ」
『面倒ね』
馬車が動き出した。
がくん、と大きく揺れて、私は壁に肩をぶつける。少女も倒れかけたので、重い手を伸ばして、どうにか彼女を支える。
「ご、ごめんなさい」
「気にしないで」
言い切ると、少女は薄紫の目を丸くした。
馬車は森の奥へ進んでいく。車輪の音が、さっき乗っていた乗合馬車よりずっと荒かった。
「名前、聞いてもいい?」
私が訊くと、少女は背筋を伸ばした。
「イリスです」
まっすぐ答えが返ってきた。
「いい名前だね」
「私もそう思います」
その声は小さいのに、はっきりとしていた。
イリスは笑うと、ずいぶん幼く見えた。
「私はマイ」
「マイさん」
「さんはいらないよ」
「でも、年上の方ですし」
「たぶんそんなに変わらないよ」
「それでも、マイさんです」
「じゃあ好きに呼んで」
「はい、マイさん」
意志の強さに笑いそうになった。
そのとき、馬車の外で盗賊の一人が怒鳴った。
「急げ。もうすぐ日が落ちるぞ」
「これ以上速度を上げられるかよ。荷が増えたんだぞ」
「文句言うな。今日中に赤髪を届ければ一生食うに困らない額貰えるんだ。さっさと進め」
盗賊たちは私を、明らかに知っている口ぶりだった。
ただの盗賊じゃない。私のことを知っていて、待ち伏せたのだと思えた。
『次は迷わず、容赦なく殺しなさい』
答えなかった。
答えられなかった。
私はまだ、ただの女子高生のつもりだった。
悪人だろうと、人の命に手をかける自分を、うまく想像できない。
それでも、この世界で、元の世界に戻るためにはいつか、最悪の選択を選ぶ必要があるのかもしれない。
考え込んでいると、馬車の奥で、イリスが顔を上げるのが見えた。
「……来ます」
イリスの声が、さっきより大きかった。
「何か、来ます」
外の盗賊たちは、まだ談笑していた。馬車は変わらず揺れている。車輪の音、馬の息、男たちの悪態、森の枝が擦る音。
その中に、奥に、低い音が混じった。
遠くの空気が、押し潰されるような音。
『……真上ね』
ベルザリアが言った。
次の瞬間、馬が狂ったように嘶いた。
馬車が大きく傾く。私は床に手をつこうとしたけれど、うまく受け身が取れなかった。肩から壁にぶつかる。イリスが悲鳴を飲み込む。
外で盗賊が叫んだ。
「何だ!」
「空だ! 上を見ろ!」
屋根の隙間から、一瞬だけ光が消えた。
何かが空を塞いだのだ。
続いて、凄まじい風が馬車を叩いた。布が裂け、木が軋む。盗賊たちの怒鳴り声が悲鳴に変わる。
私は裂けた屋根の隙間から外を見た。
夕暮れの空を、銀色の影が横切っていた。
大きい。
鳥なんかじゃない。
馬車よりも、木よりも、ずっと大きい。
銀の鱗が傾いた日を弾き、長い翼が森の上を覆う。首がしなり、鋭い爪が空気を裂いた。遠目でもわかった。あれは、こちらを見ている。
イリスが震える声で呟いた。
「ごめんなさい。ごめんなさい」
「どうしたの」
「私のせいなんです」
銀の影が旋回した。
馬車の中の空気が、黒く重く沈む。イリスの周りに漂っていた薄い靄が、さっきより濃く見えた。
「魔物は、私を食べたがるんです」
イリスは膝を抱えたまま、小さく続けた。
「私を食べると、強くなれるから」
その言葉が終わるより早く、銀色の龍が、森の上から降ってきた。




