3
扉は、重たい息を吐くみたいに、ゆっくりと開いた。
中は広かった。
通路の湿った石壁とは違う、磨かれた床。
地面に敷かれた赤い布が、真っ直ぐ奥へ伸びている。両脇には燭台が並んでいた。青白い炎が揺れているのに、熱を放っているようには見えない。それでも部屋の空気は、妙にぬるかった。
部屋は豪華なのに、ちぐはぐだった。
長い間誰も触っていないはずの場所で、すべてが真新しい。ほこりも、傷も、時間の匂いさえない。その不自然さが、引っかかった。
部屋の真ん中には、女の子が座っていた。
赤く長い髪。
淡く白い肌。
華奢な細い体。
私より少し幼い年頃に見える。胸元から裾まで、赤と黒を基調にした妙に豪華な服を着ていた。人形みたいだった。高い棚に飾られて、誰にも触らせてもらえないもの。
そこに、首にはめられた黒い枷だけが、ひどく浮いていた。
よく見れば手足に太い鎖が巻かれている。
両腕も、足首も、全部。鎖は部屋の隅に立つ黒い柱へ繋がっていた。
最初に浮かんだのは、助けなきゃ、だった。
その子は笑っているのに、ひどく苦しそうだったから。
「こんばんは。……ああ、でもここには昼も夜もないのよね」
少女は楽しそうに首を傾げた。
声は甘く、やわらかく、耳に心地よかった。洞窟にいることを忘れそうになるくらい、なめらかに溶ける声だった。
後ろで狼たちがざわつく。
警戒なのか、困惑なのか、自分たちでもわからないような低い鳴き声が重なった。
少女はその音へ目を細め、笑う。
「大丈夫よ。食べたりしないわ」
その一言で、足が止まった。
食べる。
腕をもがれた感触が戻ってくる。
頭を噛み砕かれた音が、耳の内側で鳴る。
狼の群れに牙を立てられた痛みが、皮膚の下から這い上がってくる。
目の前の音が遠のいた。
少女は、そんな私を見て困ったように笑った。
「ごめんなさい。怖がらせるつもりはなかったの。ただ少し、お腹が空いていて」
お腹が空いていた。
だから思わず口走ったのだろうか。
「クゥ……ッ」
喋ろうとしても、出るのは獣の声だけだった。
「ええ、わかってるわ。喋れないのよね」
どうしてわかるの。
思いが顔に出たのか、少女はふっと目を細めた。
「だって、あなたは人だもの。体は狼なのにね」
ぞくりとした。
この子は、私を狼として見ていない。
毛皮の奥にある私を、覗いている。
肉の下に手を入れて、そこに隠してある私を摘まみ上げている。
やさしい声に、逃げ道を塞がれた気がした。
「助けてくれる?」
少女が、鎖を軽く鳴らした。
重い金属音が響く。嫌な音だった。
黒く鈍く光る鎖は、表面に細い紋様が刻まれ、かすかに赤く脈打っている。
見た瞬間、体が拒んだ。
触れたらいけない。
狼の本能なのか、私の勘なのか、わからない。けれど足の裏が床に貼りついて、爪だけが小さく鳴った。
少女は、そんな私に気づかないみたいに、やさしく続ける。
「ここから出たいの。ずっと待っていたのよ。誰かがここまで、来てくれるのを」
嘘には聞こえなかった。
少なくとも、私には。
後ろの狼たちがまた小さく鳴いた。警戒より、迷いに近い声だった。
私と同じだ。この子を助けたい。でも何かがおかしい。その両方が、ぶつかっていた。
私は一歩、また一歩と近づいた。
彼女の顔がはっきり見える距離まで進んで、足を止める。
綺麗な子だった。赤い髪は艶やかで、睫毛は長く、口元は少しだけ幼い。けれど、目は違った。
深い。
静かで、赤くて、底が見えない。
吸い込まれる深さじゃない。
落ちていく深さだった。
「あなた、やさしいのね」
胸のあたりが痛んだ。
やさしいんじゃない。
ただ、見なかったことにできないだけだ。困っている誰かがいると、放っておけないだけ。
この子をここへ置いて進むのは、嫌だった。
私は鎖に鼻先を寄せた。
金属の匂いはしない。代わりに、焦げたような、古い血のような、変な匂いがした。留め具に、わずかな隙間がある。
噛めば、いけるかもしれない。
振り返る。
群れがじっと見ていた。
お願いされたからじゃない。命令されたわけでもない。でもたぶん、ここにいる全員が同じ考えだった。
放っておけない。
私は鎖に歯を立てた。
硬い。
噛んだ瞬間、歯の根元まで痺れる。奥歯が抜けそうな痛みが走った。それでも狼の顎は思ったより強い。何度か力を込めるうち、表面に細い亀裂が入った。
少女が、小さく息を呑んだ。
その音が、妙に甘かった。
「……ふふっ」
嫌な予感がした。
私はとっさに後ろへ大きく下がった。
狼たちを止めようと振り返る。
間に合わなかった。
周りにいた狼たちは、もう他の鎖へ食らいついていた。柱に巻かれた部分。足首の輪。腕の拘束。
獣の顎と爪が、異物じみた黒い鎖を削り、こじ開け、砕いていく。
ひびが入る。
留め具が外れる。
床に落ちた鎖が、重い音を立てた。
一つ。
二つ。
三つ。
最後の鎖が外れた瞬間、少女の首の枷にも亀裂が走った。
黒い破片が、ぱらぱらと少女の膝へ落ちる。
彼女の肩が、ふっと軽くなった。
その瞬間だった。
部屋の空気が変わった。
熱い。
さっきまでぬるかったはずなのに、突然、息苦しいほど熱を帯びる。燭台の炎が一斉に長く伸び、青白かった光が血みたいに赤く染まった。
私は硬直した。
周りの狼たちも同じだった。
彼女が、ゆっくり立ち上がる。
黙って見ていることしかできなかった。
細い体が、まっすぐに伸びる。骨の軋む音はしない。ただ、空気が裂けるみたいな音だけがした。
「やっと」
彼女は笑った。
もう、さっきまでの笑顔じゃなかった。
やさしく助けを求める女の子の顔じゃない。
飢えていた。
喜んでいた。
長い断食のあと、ようやく食卓へ着ける獣の顔だった。
「やっと、食べられる」
全身の毛が逆立つ。
逃げなきゃ。
そう思った瞬間、いちばん近くにいた狼が弾けた。
何が起きたのかわからなかった。赤いものが飛び散って、肉の塊が床に落ちる。白い毛が、濡れた紙くずみたいに散らばった。
それでやっと理解する。
砕かれたんだ。
ただ腕が振るわれただけで。
狼たちが悲鳴を上げる。
彼女は笑っていた。
「ごめんなさいね。でも、あなたたち、すごく美味しそうなんだもの」
次の一歩で、また一匹が潰れた。三匹目は、頭から半分なくなっていた。
速すぎる。見えない。周りの狼の体が、何の抵抗もなく壊されていく。
彼女の口元には、見覚えのある飢えがあった。
あの巨人と同じだ。
子供みたいに無邪気で、だからこそ救いようのない飢え。
彼女の視線が、死骸の向こうから真っ直ぐ私を射抜く。
「ああ」
うっとりした声だった。
「あなた、いいわね。いちばんいい」
まずい。
体の全部がそう叫んだ。
でも、脚が動くより早く、彼女は目の前にいた。
赤い髪が揺れる。白い指が、喉元へ触れる。手は華奢なのに、信じられないほど重かった。押さえつけられただけで、体が床に沈み込む。
私は必死でもがいた。牙を剥き、爪を立て、吠えた。でも、その全部が子犬の抵抗みたいに軽かった。
彼女はそんな私を見下ろして、うれしそうに目を細める。
「はじめまして。私はベルザリア」
その名が、やけに綺麗に耳へ落ちた。
「ねえ、あなたは何を食べてここまで来たの?」
答えられない。
喉を押さえられて、声も出ない。
彼女は楽しそうだった。
「まあ、いいわ。食べればわかるもの」
その口が、ゆっくり開く。
白い歯が見えた。
女の子の形なのに、その奥は暗い穴だった。
底が、見えない。
見ているだけで、戻れない場所へ引きずり込まれる気がした。
(いやだ)
叫んだつもりだった。
でも潰れた喉から漏れたのは、情けない鳴き声だけだった。
(食べられたくない)
腕も脚も、もう力が入らない。
ベルザリアの目だけが、やけにはっきり見えた。
綺麗で、残酷で、深く、どうしようもなく、飢えている赤い目。
(私を、たべな)
次の瞬間、世界が赤く染まった。
肉を裂く音。
骨を噛み砕く音。
私という形が、また壊れていく感覚。
暗闇へ落ちる寸前、耳のすぐそばで、彼女が笑った。
「あなた、最高」




