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2

 暗くて、冷たくて、重い。


 その底で、私はまた目を開けた。


 今度は視界が、低かった。


 さっきの巨体から、急に地面へ引き戻されたみたいだった。床が近い。石が近い。何もかもが、顔のすぐ下にある。


 澄ませると血の匂いが鼻の奥にこびりついていた。


 それに息をするたび、湿った石と獣臭も肺へ流れ込んでくる。


 嗅ぎ回るように自分の体を確認しようとして、私は息を止めた。


 白い毛。

 硬い爪。

 細い前足。

 

 私は、狼になっていた。


「……ッ」


 なんで、と叫んだつもりだった。けれど口から漏れたのは、小さな鼻鳴きだけだった。


 目の前には、さっきまで私が入っていたであろう巨体が横倒しになっている。腹は裂け、肉は噛みちぎられ、床一面にどろりとした血だまりを広げていた。


 そこへ群がっていたはずの狼たちは、ぴたりと動きを止めている。


 おかしい、と思った。


 獣ならこんなふうに止まらない。落ち着きとは程遠いはずだ。なのに目の前の狼たちは、まるで考え込んでいるみたいに、小首を傾げていた。


 ふと一匹が、こちらを向いた。


 黄色い目と視線がぶつかる。


 瞬間、背中の毛が逆立った。


 その目は、獣の目じゃなかった。何が起きたのかわからず混乱していて、自分が狼だということに、今さら気づいたみたいな目だった。


 目の中の光には見覚えすら、あった。


「……クゥ?」


 その狼が、小さく鳴いた。


 すると近くの一匹がびくっと肩を揺らした。別の一匹が、慌てたみたいに自分の足先を見下ろした。さらにもう一匹が、後ずさった拍子に自分の尻尾を踏み、驚いて跳び上がった。


 あまりにも、人間くさかった。


 まるで中に、人が入っているみたいだった。


 まさか、と思った。

 思いたくなかった。


 けれど、黄色い目が私を見るたび、嫌な予感が形を持っていく。


 この狼たちも、きっと、私だ。


 どういうわけか、私を食べた狼が、私になっている。


 何匹いるのか数えられなかった。視界の範囲でも十匹以上はいる。その全てが、さっき巨人の肉に群がっていた狼たちが、全部、同じ目をしていた。


 一匹が、おそるおそる前足を上げた。


 何かを言おうとしているのはわかった。けれど口を開いても、鳴き声が漏れるだけだった。喉の形が、人間の言葉を許してくれない。


 それでも、伝わった。


 怖い。

 わからない。

 ここにいたくない。


 私はゆっくり立ち上がった。


 鼻先を暗闇のほうへ向ける。


 出口を探そう。そういうつもりだった。


 すると近くの狼が私を見た。次に、別の一匹も見た。気づけば群れの視線が、全部こっちへ集まっていた。


 なんで私なんだろうと思った。でも考えて、わかった。


 たぶん、最初に決めたからだ。


 私は一歩、踏み出した。


 群れがざわめく。鳴き声がいくつも重なった。一匹、また一匹と、私の後ろへ並び始める。


 きれいに揃っているわけじゃない。

 でも、ばらばらでもなかった。


 みんな、自分が何になったのかもわからないまま、とにかく前へ進もうとしている。先頭にいる私と同じだった。


 私たちは暗い通路を進んだ。


 壁も床も濡れていた。ところどころ石が青白い光を落とし、その中を狼の影がいくつも伸びていく。

 途中で小さな生き物が飛びかかってきたけれど、群れは止まらなかった。前にいた数匹がすぐに押さえつけ、噛み砕き、道を開ける。


 四本の足は、戦い方も走り方も知っていた。


 爪をどこに立てればいいか。

 どのくらい腰を落とせば跳べるか。

 そんなこと、私は知らないはずなのに、体は迷わない。


 体が、勝手にやり方を知っている。


 怖かった。


 このまま長く狼でいたら、私は人間だったことを忘れてしまうんじゃないか。


 そう考えた瞬間、背中が冷たくなった。


 私はマイ。

 女子高生だ。


 制服を着て、帰り道を歩いていた。

 学校では友達と、今日の小テストがどうとか、コンビニで何を買うとか、そんな話をしていたはずだ。


 忘れたくなくて、私は頭の中で自分の名前を繰り返した。


 マイ。マイ。私はマイ。


 何度目かの反復のあと、通路の先に違う光が見えた。


 青白い石の光じゃない。もっと赤くて、あたたかくて、不自然な光だった。


 群れもそれに気づいたらしい。横に並んだ一匹が、低く喉を鳴らす。警戒と期待が混じった声だった。


 近づくと、そこには巨大な扉があった。


 岩壁に埋め込まれた黒い扉。表面には見たことのない紋様が浮かび、赤い光が脈打つみたいに走っている。


 空気が違った。


 息を吸うだけで、喉の奥が詰まる。飲み込んでもいないものが、そこに引っかかったみたいだった。扉の向こうに、何かとんでもないものがいると、本能でわかった。


 でも、他に道はなかった。


 私は振り返る。


 群れの目が、また私に集まっていた。


 どうやら、私がやるしかないらしい。


 前足を、おそるおそる扉に触れさせる。ひやりとした感触が肉球を走った。次の瞬間、紋様がゆっくり明るくなり、扉の奥から鈍い音が響いた。


 開く。


 そう思ったときだった。


 扉の向こうから、甘い声がした。


「……ああ、やっと来てくれたのね」


 泣きたくなるほど、人間らしくて、優しい声だった。


 なのに、背中の毛が一斉に逆立った。

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