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濁った音が漏れた。
その音で、意識が覚めた。
最初は誰かが近くで唸っているのだと思った。風邪をひいた犬を、もっと機嫌を悪くしたみたいな音。そんなものが口の中で震えていると気づくまで、私はしばらく動けなかった。
ゆっくりと目を開けて寝そべった状態から身を起こし、最初に見えたのは緑色の腕だった。
黒ずんだ爪が、石の床に触れている。爪は洗っても取れなさそうな色をしていた。
反射的に振り払った。
腕は消えない。
振り払ったはずのものが、自分の肩からつながっていた。動かしたのは私。なのに、私の腕じゃない。そんなことが、あっていいわけがない。
「……ぇ、……ぅ」
声にならなかった。
湿った石の壁に、低いうなり声だけが返ってくる。反響を聞いて、私はますます喋れなくなった。自分の口から出たものに怯えるなんて、馬鹿みたいだと思った。少しも、笑えなかった。
立ち上がろうとした。
体がひどく重い。
手をついた石の床が、ぎしりと鳴った。床が壊れるかと思った。
立つと、視界が高い。
高すぎる。
下を見るとその床に、そこに私が転がっていた。
黒いセーラー服。
血に濡れた襟元。
だらりと伸びた白い脚。
頭と左腕のない体が、石の上に投げ捨てられている。
どう見ても、さっきまでの、私だった。
息が止まった。
死んでいる。
あれは、死んでいる。
では、私は。見ている。立っている。感じている。考えている。私は。
そんなはずが、ない。
恐る恐る触れてみても、床の上の体は動かなかった。
肩口から流れた血が、石のくぼみにたまっている。赤よりも黒く見えて、生々しくて、吐きそうになった。
その黒い水面に、私ではない化物の顔が、ぼんやり映っていた。
私は一歩、後ろへ下がった。
息が浅くなる。
吸い込もうとして、口の中の味に気づいた。
鉄の苦さ。
肉のぬるさ。
舌に貼りつく脂。
焼ききれなかったときの生肉が、たしかこんな味だった。そんなことを考えて、内臓が震えた。
案の定、胃の底がひっくり返る。
吐いた。
床に胃液が落ちる。出てきた肉の塊に混じって、ぬめった音が漏れた。もう一度、吐いた。また出た。
吐いても吐いても、口の中から消えなかった。私が飲み込んだ覚えのないものが、まだ口の奥に残っている気がした。
腕だろうか。
頭だろうか。
また、吐いた。
もう何も出ないのに、体だけが勝手にえずく。涙も鼻水も一緒くたに出た。
最後に、声にならないものが喉から零れた。
なにもかも吐き終えたあと、頭を抱えた。どれくらいそうしていたかは、わからない。
落ち着くまで時間をかけて、ようやく顔を上げることができた。
あらためて、足元に転がっている私の死体を見る。
あれは私だ。
じゃあ、これは、この体は、何だ。
しばらく考えても答えは出そうになかった。帰りたいとうずくまりそうになったけれど、ここで待っていても、無事では済まない。頭のない私の体が、それを嫌でも教えてくれた。
出口を探さないと。
ここから出ないと。
これは夢ではないのだから。
夢なら、とっくに覚めているはずだった。
震える足で立ち上がる。また床が重く鳴った。水滴の落ちる音まで、耳の奥でやけにはっきり響いている。耳がいいのか、この場所が静かすぎるのか。
感覚を澄ませて、鼻を突くのは湿った石と血の匂い。
その奥に、別の匂い。
気づいて、息を止めた。
何かいる。
あの巨人みたいなものじゃない。もっと小さい。でも、一つじゃない。
目を凝らすと暗闇の奥に、いくつも光るものが見えた。
獣の目だ。
私が気づいたのと同時に、白い毛並みが闇の中からじわじわ浮かび上がった。
狼だった。
五匹か、それ以上か。私を中心に円を描くようにして、じりじり距離を詰めてくる。
黄色い目が、私を見ていた。
この飢えた目を、私は知っていた。
私は、獲物だと思われている。
「く、るな……!」
吠えるような声しか出なかった。
それでも洞窟の中に大きく響く。
だけど、狼たちは怯まなかった。先頭の一匹が身を低くして、弾かれたように飛びかかってくる。
私はとっさに腕を振った。
偶然にも直撃した狼の体が横へ吹き飛び、石壁に叩きつけられる。鈍い音が響き、群れが一瞬止まった。
戦える。
そう思ってしまった。
次の瞬間、二匹が左右から飛びついてくる。牙が腕に食い込み、爪が足を走った。痛い。けれど倒れない。まだ動ける。
私は無我夢中で体を動かした。噛みついた一匹を床に叩きつけ、もう一匹を蹴り飛ばす。一匹払えば別の一匹が来る。背中に牙が立ち、肩に爪が食い込む。それでも体は動いた。
この体は強かった。
でも、遅かった。
じわじわ押し込まれていく。足元が濡れていた。血だった。私のか、狼のか、もうわからない。踏ん張ろうとした瞬間、足首に牙が食らいついた。
体勢が崩れる。
倒れた。
衝撃で肺の空気が抜けた。そこに群れが殺到する。
足へ。
腹へ。
喉元へ。
また、食べられる。
怖い。痛い。死にたくない。
さっき死んだばかりだ。また死にたくなかった。
でも、その願いを聞いてくれるものは、誰もいない。
最後に見えたのは、私の胸の上に乗った一匹が、大きく口を開くところだった。




