33
出発までの二日は、思っていたより早く過ぎた。
服を買った。
靴を買った。
旅袋を買った。
保存のきく食べ物と、水袋と、雨避けも買った。
ひとつひとつは小さな用事なのに、私には全部が大ごとだった。
どれが必要なのか、何を買うべきなのか、何もわからない。
だからロランが値段を見て、ネアが必要なものを選び、ユーノが余計なものを戻してくれた。
私は途中から、ただ頷く係になった。
旅支度のためのお金は、ほとんどロランに預けていた。けれど、気になる食べ物を見つけたときに買えるように、結構な額を手元に分けてもらっていた。
本当は焼き菓子とか、串焼きとか、そういうものを買うためのお金だった。
でも、出発が近づくにつれて、それより先に買いたいものができた。
出発の前夜、古鍋亭ではいつも通りに客が騒いでいた。
私は二階の部屋で荷物を並べ、忘れものがないか確かめる。
服、雨避けの外套、証明書、馬車札、お金、水袋。
そして、干し肉の包み。
干し肉の包みだけ、妙に厚かった。
夜は、あまり眠れないかと思った。
でも、横になったらすぐ眠っていた。
朝、早めに着いた南門の前には、もう馬車が並んでいた。
空気は冷たい。石畳は朝露で濡れていて、馬の息が白く見える。門の外へ続く道は、町の中よりずっと広かった。家並みが途切れ、その先に畑と低い丘が見える。
私はそこで、立ち止まった。
迷宮都市の外。
迷宮都市で過ごした時間はそれほど長くはなかった。
それでも、すごく名残り惜しかった。
御者が馬車札を確認し、私の証明書を見る。名前を帳面に写し、荷物を載せる場所を指した。
「神領ノエティア行き、一名」
「はい」
返事をして、寂しさが増した。
一名。その言葉が、重かった。
ロランが私の荷物を馬車に載せる。ネアは外套の留め具を直してくれて、ユーノは私に旅の注意をつらつら並べていた。
「もういい」
「でも」
「もういい」
「はい……」
あまりにも並べすぎていたので、見かねたロランが止めていて、その姿がおかしくて、つい笑ってしまった。
笑うと、泣きそうになった。もうこのやりとりを見られるのは、最後かもしれない。
別れる前に、渡さなきゃいけないものがあった。
「あのさ」
三人がこちらを見る。
私は旅袋の奥から、包みを三つ取り出した。
「お世話になったから。大したものじゃないけど」
まず、ロランへ大きな袋を渡す。
ロランは受け取る前から、嫌そうな顔をした。
「旅の金にしろ」
「高くなかったよ。たぶん」
値札は見た。見たけれど、高いのか安いのかはよく分からなかった。
「たぶんで買うな」
「籠手。前衛の要なロランに似合いそうだったから」
ロランは黙った。
受け取らないつもりなのかと思ったけれど、最後には短く息を吐いて、手を出した。
「毎日使う」
「うん」
次に、ネアへ青い石の髪留めを渡した。
派手なものではない。小さくて、曇っていて、光に当てると青白く見える。
「ネアにはこれ」
ネアは手のひらに乗せて、目を細めた。
「きれい」
「ネアの魔法みたいだったから買っちゃった」
言ってから、急に恥ずかしくなった。
ネアはすぐには答えなかった。髪留めを指先で撫でて、それから静かに言った。
「大事にする」
ちゃんと渡せてよかったと思った。
最後に、ユーノへ方位盤を渡す。
手のひらに収まるくらいの、道具だった。丸い蓋つきで、中には細い針が揺れている。迷宮でも使える魔道具と聞いて選んだ。高級品らしいが正直私には、詳しい価値や使い方まではわからない。
「ユーノにはこれ」
「え」
ユーノは両手で受け取って、蓋を開けた。中の針が揺れる。
「方位盤……ですか?」
「道に迷わないように」
「これ、どちらかというとマイさんに必要では?」
「痛いところつかれた」
ユーノは呆れたように口を開け、それから方位盤を大事そうに閉じた。
「ありがとうございます」
贈り物を渡し終えて、荷物は軽くなるはずだったのに、気持ちはひどく重かった。私はちゃんと別れる準備をしてしまったのだと、気づいたからだった。
「ここまで、ありがとう」
言うと、三人がこちらを見る。
ロランは頷いた。
「無事に行け」
「うん」
「飯は食え」
「任せて」
ネアが言った。
「困ったら、まず人の多い場所へ行って」
「うん」
「それと、独り言は小さめに」
「気をつけます」
ユーノは迷ってから、頭を下げた。
「助けてくれて、ほんとうにありがとうございました。また、会いましょう」
さようなら、ではなかった。
「うん。また会おうね」
掠れた声しか出なかった。それでも、ちゃんと声が出てよかった。
『ずいぶん懐かれたものね』
ベルザリアが頭の奥で言った。
「私も懐いたからね」
うっかり声に出していた。
ユーノが目を瞬く。ネアが目元を緩める。ロランは何も言わず、私の頭にぽんと手を置いた。
「行ってこい」
その手はすぐ離れた。
馬車に乗る。
木の座席は硬く、席は小さい。荷物を膝元に寄せると、干し肉の匂いがした。御者の声が上がり、馬車がゆっくり動き出した。
石畳の音が、土の道の音に変わる。
私は振り返った。
三人はまだ門の前にいた。ロランが片手を上げ、ユーノが大きく手を振り、ネアは小さく手を上げている。
その姿が、小さくなる。
古鍋亭。
迷宮都市。
地上で初めて眠れた場所。
忘れられない優しい人たち。
全部が遠ざかっていく。
私は膝の上で手を握った。
「進もう」
『ええ』
ベルザリアの声が、頭の奥で静かに響いた。
『神領ノエティアへ』
馬車は揺れながら、道を進んでいく。
私は外を見た。畑の向こうに、知らない森が広がっている。その先に、まだ見たことのない場所がある。
干し肉の包みをそっと押さえて、私は前を向いた。




