32
昼飯を終えて古鍋亭を出る頃には、通りはさらに賑やかになっていた。
荷車には皮や鉱石らしい袋が積まれ、冒険者たちが鎧の留め具を直しながら歩いている。屋台からは焼いた粉ものの匂いがして、私は思わずそちらを見た。
「さっき食べたよね」
ネアが言った。
「見ただけだし」
「顔が食べてた」
「顔は食べないと思う!」
私の反応がおかしかったのか、ユーノが笑った。
冒険者協会は、通りの角にあった。古鍋亭よりずっと大きい。石と木でできた広い建物で、入口の上には剣と羽根を組み合わせたような紋章が掲げられている。
扉は開け放たれていて、中から人の声が流れてきた。
入った瞬間、私は足を止めた。
壁一面に紙が貼られている。
札が並んでいる。
奥の窓口には、帳面と秤と箱がある。
新鮮な光景に気持ちが高ぶった。
ロランはまず受付へ向かった。
「こっちだ」
短く呼ばれて、私は慌てて後を追う。ユーノが横に並び、ネアは私の少し後ろについた。受付の前まで来ると、ロランが一歩横へずれる。
「証明書をお願いします」
受付の女が言った。
「あ、はい」
私は服の内側から金属板を取り出し、受付へ差し出した。女はそれを受け取り、何かをかざし、刻印を見て、帳面に書き込んだ。
「マイ・ワタナベさん、冒険者登録は未登録ですね。今日は登録ですか?」
「えっと」
「今日は鑑定と、神領ノエティア行きの馬車を確認したい」
ロランが代わりに言った。
「同行者ですか?」
「いや、俺たちは付き添いだ」
その言葉が、寂しかった。
わかっていた。
三人には三人の生活がある。古鍋亭があって、冒険者としての仕事があって、この迷宮都市での毎日がある。私の目的地にまでついてくる理由はない。
それでも、実際に言葉になると、寂しかった。
私の心を見透かしたのか、ネアがこちらを見て言った。
「門の前、馬車までは行く」
「うん」
「それまでは一緒」
「……ありがとう」
ネアが目元を緩めた。
受付は紙をめくりながら続ける。
「ノエティア行きの直通便は、明後日の朝に一本あります。護衛付きの乗合馬車、空きは一名です」
「一名」
私は繰り返した。
「運がいいね」
ネアが言った。
「費用は?」
ロランが訊く。
受付が金額を告げた。
私には相場がわからない。ただ、ユーノの顔が引きつったので、高いことがわかった。
「もしかして高い?」
「高いです。でも直通なら、まあ……高いです」
私は包みを抱え直した。
「鑑定、お願いします」
受付の女は奥の窓口を指した。
「それでは三番へどうぞ」
三番窓口には、細い眼鏡をかけた男が座っていた。机の上には秤と、虫眼鏡みたいな道具が置かれている。私が包みを置くと、男は何気なく布を解いた。
赤と黒が、協会の光の中に広がった。
瞬間、男の手が止まった。
ほんの一瞬。
すぐに何でもない顔へ戻った。
「衣服ですね」
「派手な衣服です」
答えると、男は眼鏡の奥でまばたきをした。
「どこで手に入れたんですか?」
「迷宮で」
ロランが横から言った。
「売却できるか確認したい」
「分かりました」
男はそれ以上聞かなかった。
布地に指を滑らせる。裏地を見る。縫い目を見る。光にかざす。小さな石みたいな道具を当てると、道具の表面がかすかに赤く濁った。
男は無言で道具を置いた。
「傷みがほとんどない。染めではなく、素材そのものに色が入っている。魔力反応に近いものも残っている」
「売れますか?」
「協会で買い取れます」
即答だった。
「この値段で買わせていただきます。いかがですか」
ユーノが金額を見て息を呑んだ。
「馬車代には足りるかな」
気になって聞いてみた。
「……十分です。旅の支度を足しても、お釣りが出るでしょう」
ベルザリアが満足そうに笑った気配がした。
『悪くない金額ね』
ただ男の表情は明るくなかった。値のつくものを見つけたというより、扱いに困るものを前にした顔だった。
「じゃあ、売ります」
「本当にいいの?」
ネアが訊いた。
私は服を見た。
ベルザリアが着ていたもの。
迷宮からここまで一緒に来たもの。
『構わないわ』
ベルザリアが言った。
『必要なら、もっといいものを用意させればいいだけよ』
いつも通り偉そうだった。
でも、その言葉で迷いはなくなった。
「いい。その金額で売ります」
私は頷いた。
「いま必要なのは、服より馬車代だから」
男は契約の紙を出した。文字は読める。それでも私は一行ずつ確認して、名前をゆっくり書いた。
マイ・ワタナベ。
知らない文字で書いたはずなのに、手は迷わなかった。
代金は、小さな革袋に入れて渡された。ずしりと重い。初めて持つこの世界のお金だった。私は落としそうになって、慌てて両手で受け取る。
「お金見るのも持つのも初めて?」
ネアが静かに言った。
この世界では実際に初めてだったので、答えに詰まった。
「持つぞ」
「お願いします」
私はすぐにロランへ渡した。ロランは受け取りながら、驚いた顔をした。
「信用しているんだな」
「ロランは信じているから」
言ってから、恥ずかしくなる。
ロランは何も言わず、革袋を自分の荷物にしまった。
その後は早かった。
馬車の席を押さえる。出発は明後日の朝、南門前の発着場。神領ノエティアまでは途中の町と宿場を継いで、到着は順調なら七日後、大きな荷物は別料金、食事は個々で用意する。
受付の長い説明を聞きながら、私は紙に書かれた文字を追った。
遠い場所。
ベルザリアが行けと言った場所。
神領ノエティア
その名前が、私を待っている。
協会を出るころには、空が赤く染まっていた。
通りの灯りが増え、人はまだ多い。ロランは荷物を持ち直し、ネアは予約票を確認し、ユーノは私の証明書と予約票を見比べていた。
「明後日か」
ロランが言った。
「うん」
私は頷いた。
「それまでに服と靴と、最低限の荷物を揃えないとですね」
「食料も」
ユーノの言葉にネアが足す。
「干し肉がいいなぁ」
「大事だ」
ロランが笑った。
私は協会の扉を振り返った。
迷宮を共にした服はもう、私の手元にない。
代わりに馬車の席と、お金と、次の道が残った。
『後悔しているの?』
ベルザリアが言った。
「愛着があったから」
『ただの布よ。大事なのは自分自身よ』
私は返事をしなかった。
街では心地の良い雑踏が聞こえていた。
明後日、私はこの街を出る。
三人とは、そこで別れる。
手に入れたものを、すぐに手放して進んでいく。
そういうことに、まだ慣れそうになかった。




