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 あらためて手の中にある、薄い金属板を見る。


 マイ・ワタナベ。


 そこに刻まれた文字を、私は読めていた。見たことのない形のはずなのに、意味だけがするりと頭へ入ってくる。

 不思議だった。自分の名前が、知らない文字で私を指している。


『読めるのは当然でしょう』


 頭の奥でベルザリアが言った。


「当然なの?」


『この体で、人間の言葉や文字ひとつ読めないほうがおかしいわ』


 私は金属板を見下ろしたまま、眉を寄せた。


 この体は強いだけではなかったのか。

 言葉も文字もわかるのか。


「どうしたんですか?」


 ユーノが横から覗き込もうとして、すぐに距離を戻した。聞きたいけれど聞きすぎないように気をつけている、という顔だった。


「大丈夫、なんでもないよ」


 ユーノは明らかに何か言いたそうにしていたけれど、ロランがその肩を軽く叩いた。


「帰るぞ。立ち話する場所じゃない」


「そうだね」


 私は金属板を服の内側へしまった。


 店の前まで戻ると、先にロランが中へ向かって声をかける。


「戻った」


「飯いるかい!」


「いる」


 即答だった。


 みんなで笑った。さっきまで胸の奥に刺さっていた棘の違和感が、煮込みの匂いで鈍くなる。


 昨日と同じ奥の席に座ると、ロランは水を置き、ネアは私の前に証明書を出すよう手で示した。私は金属板を置く。三人で覗き込んだ。


「本物だね」


 ユーノが言った。


「ちゃんと刻印もある。門も通れるし、宿にも泊まれる。協会でも使えると思います」


「協会?」


「冒険者協会。登録、依頼、素材の換金、鑑定、他国へ行く馬車の手配。面倒ごとはあそこに集まります」


 馬車、という言葉に、頭の奥でベルザリアが反応した。


『小娘』


「なに」


 三人は何も言わなかった。いつものことだと、流してくれたらしい。ロランは水を飲み、ネアはパンをちぎり、ユーノだけがこちらを見ている。


『神領ノエティアへ行きなさい』


 その声は、重かった。


 私は指先を膝の上で握る。


 神領ノエティア。


 名前だけでは、どんな場所なのか分からない。けれど、ベルザリアがわざわざそこへ行けと言うなら、そこに何かがあるのだろう。


 私が元に戻る方法か。

 ベルザリアが体に戻る方法か。

 あるいは、そのどちらでもない何かか。


「行きたい場所がある」


 私は言った。

 三人の視線が自然に集まる。


「神領ノエティアに行きたい」


 ユーノが目を丸くした。


「遠いですよ」


「やっぱり?」


「はい。乗合馬車は出ていますけど、直通でも何日か、かかります。お金もそれなりに」


 私は水を飲んだ。冷たい。

 それから、自分が一文無しだということを思い出した。


「行きたいなら準備するしかない」


 ロランが言った。


「まず金だな」


「お金……」


 証明書は手に入った。地上にも出た。でも、ここから先はまた別の問題だった。移動するにも、泊まるにも、食べるにもお金がいる。当然そんなものはない。


『あの服なら馬車代くらいにはなるでしょう』


 ベルザリアが言った。


「あの服、売っていいの?」


『布切れに執着する趣味はないわ。売れるなら売ればいいでしょう』


 ネアが上に目を向けた。二階にしまわれている、あの派手すぎる服のことだと気づいたらしい。


「昨日の服のこと?」


「そうかも」


 私はごまかすみたいに言った。


「あれ、売れるかな」


 そこでロランの顔つきが変わった。


「売る前に鑑定だな。見た目だけでも普通じゃない」


「そうなの?」


「迷宮にいたのに、あの服の生地は傷んでいなかった」


 ロランが淡々と続ける。


「協会に鑑定窓口がある。馬車の便も確認できる。行くならまとめて済ませたほうがいいな」


「今日?」


「早いほうがいい」


 ユーノが頷いた。


「ノエティアへの直通馬車なら、すぐに席が埋まることもあります。急ぎましょうか」


 話が進んでいく。

 でも、詰所で何かが勝手に決められていったときとは違う。今度は、自分たちで道を開いている感覚があった。


 次の行き先が、決まろうとしている。


「協会に行こう」


 私が言うと、ロランが頷いた。


「昼飯を食ってからだな」


「そうしましょう!」


 少なくとも、食べることに関してロランは絶対的に正しかった。


 ネアが立ち上がる。


「服、持ってくる」


「ありがとう」


「話が終わったなら手伝いな!」


 私たちの話を聞いていたのか、奥から声が飛んできた。

 ロランが立ち上がった。


「行ってくる」


「食堂の息子って大変だね」


「飯が出るから悪くない」


 大柄なロランが言うと説得力があった。そう言ってから彼は奥へ消えていった。


 私は残された水を飲み干し、息を吐く。


 地上には出た。

 けれど、進み方がわかったわけじゃない。

 ただ食われないように進むだけでは足りない。


 どこへ行くか。

 誰を信じるか。

 何を手放すか。


 慎重に決めながら、進まないといけない気がした。

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