31
あらためて手の中にある、薄い金属板を見る。
マイ・ワタナベ。
そこに刻まれた文字を、私は読めていた。見たことのない形のはずなのに、意味だけがするりと頭へ入ってくる。
不思議だった。自分の名前が、知らない文字で私を指している。
『読めるのは当然でしょう』
頭の奥でベルザリアが言った。
「当然なの?」
『この体で、人間の言葉や文字ひとつ読めないほうがおかしいわ』
私は金属板を見下ろしたまま、眉を寄せた。
この体は強いだけではなかったのか。
言葉も文字もわかるのか。
「どうしたんですか?」
ユーノが横から覗き込もうとして、すぐに距離を戻した。聞きたいけれど聞きすぎないように気をつけている、という顔だった。
「大丈夫、なんでもないよ」
ユーノは明らかに何か言いたそうにしていたけれど、ロランがその肩を軽く叩いた。
「帰るぞ。立ち話する場所じゃない」
「そうだね」
私は金属板を服の内側へしまった。
店の前まで戻ると、先にロランが中へ向かって声をかける。
「戻った」
「飯いるかい!」
「いる」
即答だった。
みんなで笑った。さっきまで胸の奥に刺さっていた棘の違和感が、煮込みの匂いで鈍くなる。
昨日と同じ奥の席に座ると、ロランは水を置き、ネアは私の前に証明書を出すよう手で示した。私は金属板を置く。三人で覗き込んだ。
「本物だね」
ユーノが言った。
「ちゃんと刻印もある。門も通れるし、宿にも泊まれる。協会でも使えると思います」
「協会?」
「冒険者協会。登録、依頼、素材の換金、鑑定、他国へ行く馬車の手配。面倒ごとはあそこに集まります」
馬車、という言葉に、頭の奥でベルザリアが反応した。
『小娘』
「なに」
三人は何も言わなかった。いつものことだと、流してくれたらしい。ロランは水を飲み、ネアはパンをちぎり、ユーノだけがこちらを見ている。
『神領ノエティアへ行きなさい』
その声は、重かった。
私は指先を膝の上で握る。
神領ノエティア。
名前だけでは、どんな場所なのか分からない。けれど、ベルザリアがわざわざそこへ行けと言うなら、そこに何かがあるのだろう。
私が元に戻る方法か。
ベルザリアが体に戻る方法か。
あるいは、そのどちらでもない何かか。
「行きたい場所がある」
私は言った。
三人の視線が自然に集まる。
「神領ノエティアに行きたい」
ユーノが目を丸くした。
「遠いですよ」
「やっぱり?」
「はい。乗合馬車は出ていますけど、直通でも何日か、かかります。お金もそれなりに」
私は水を飲んだ。冷たい。
それから、自分が一文無しだということを思い出した。
「行きたいなら準備するしかない」
ロランが言った。
「まず金だな」
「お金……」
証明書は手に入った。地上にも出た。でも、ここから先はまた別の問題だった。移動するにも、泊まるにも、食べるにもお金がいる。当然そんなものはない。
『あの服なら馬車代くらいにはなるでしょう』
ベルザリアが言った。
「あの服、売っていいの?」
『布切れに執着する趣味はないわ。売れるなら売ればいいでしょう』
ネアが上に目を向けた。二階にしまわれている、あの派手すぎる服のことだと気づいたらしい。
「昨日の服のこと?」
「そうかも」
私はごまかすみたいに言った。
「あれ、売れるかな」
そこでロランの顔つきが変わった。
「売る前に鑑定だな。見た目だけでも普通じゃない」
「そうなの?」
「迷宮にいたのに、あの服の生地は傷んでいなかった」
ロランが淡々と続ける。
「協会に鑑定窓口がある。馬車の便も確認できる。行くならまとめて済ませたほうがいいな」
「今日?」
「早いほうがいい」
ユーノが頷いた。
「ノエティアへの直通馬車なら、すぐに席が埋まることもあります。急ぎましょうか」
話が進んでいく。
でも、詰所で何かが勝手に決められていったときとは違う。今度は、自分たちで道を開いている感覚があった。
次の行き先が、決まろうとしている。
「協会に行こう」
私が言うと、ロランが頷いた。
「昼飯を食ってからだな」
「そうしましょう!」
少なくとも、食べることに関してロランは絶対的に正しかった。
ネアが立ち上がる。
「服、持ってくる」
「ありがとう」
「話が終わったなら手伝いな!」
私たちの話を聞いていたのか、奥から声が飛んできた。
ロランが立ち上がった。
「行ってくる」
「食堂の息子って大変だね」
「飯が出るから悪くない」
大柄なロランが言うと説得力があった。そう言ってから彼は奥へ消えていった。
私は残された水を飲み干し、息を吐く。
地上には出た。
けれど、進み方がわかったわけじゃない。
ただ食われないように進むだけでは足りない。
どこへ行くか。
誰を信じるか。
何を手放すか。
慎重に決めながら、進まないといけない気がした。




