29
ロランの家、古鍋亭は、迷宮の出口から下った通りにあった。
看板には、湯気の立つ古い鍋が描かれている。古い木の扉の隙間から、灯りと一緒に、肉を煮込んだ匂いが漏れていた。
私の胸が跳ねる。頭の奥でも、ベルザリアが黙ったまま身を乗り出した気がした。
ロランが扉を押す。
「ただいま」
話し声。
皿の音。
煮込みの湯気。
客の何人かがちらりとこちらを見たけれど、それだけだった。赤い髪に、布の下から派手な服を覗かせた少女が一人増えたところで、この店では大したことではないらしい。
店の奥から、太い声が飛んでくる。
「遅い! 飯は残してあるよ!」
「助かる」
ロランが短く返す。
私はロランたちについて、奥の席へ入った。
壁際の席だった。背中を預けられる場所。
ネアが自然に私をそこへ座らせる。ロランは荷物を足元に置き、ユーノは椅子に座った瞬間、机へ突っ伏した。
「生きてる……」
「生きてるね」
ネアが淡々と言う。
「祝おう」
ロランが言った。
「無事帰ってきた」
「マイさんがいなかったらと思うと……」
ユーノが顔だけ上げて、私を見る。
「本当にありがとうございました。最初は怪しい人だと思ってしまって、すみませんでした」
「それ言っちゃうんだ」
ネアとユーノのやり取りに、笑ってしまった。
そのタイミングで、湯気の立つ皿が並んだ。煮込みに黒っぽいパン。焼いた腸詰めみたいなものに温かいスープ。木の杯には、薄く濁った飲み物が注がれる。
私はついつい目を奪われた。
ロランがそれに気づいて、口元を緩める。
「食え。遠慮するな」
「そこまで言うなら遠慮しません!」
「正直でよろしい」
そこでロランが杯を上げた。
「帰還に」
ユーノが続ける。
「生存に」
ネアが言った。
「マイさんに」
私は少し迷ってから、杯を持ち上げた。
「……ご飯に」
皆で笑い合いながら、木の杯が軽く触れ合った。
私はまずスープを飲んだ。熱くて、肉と野菜の味がしっかりする。変なものは入っていない。ちゃんと、人が食べるために作った味だった。
また泣きそうになってきた。
『悪くない味ね』
ベルザリアが言った。
「生肉以外も案外いいでしょ」
小さく返すと、ネアがこちらを見る。
「独り言?」
「うん」
ネアはそれ以上聞かなかった。
ユーノは聞きたそうな顔をしたけれど、ロランがパンを彼の皿へ押し込んだ。
「食え」
「こんなに食えないってば!」
話題を変えようとするロランの気遣いが、体にしみるのを感じた。
三人のやりとりは自然だった。ロランが大皿を引くと、ユーノが文句を言う。ネアが何も言わずに一番焦げていない肉を取る。ロランが気づいて、でも何も言わない。そういう小さな呼吸が、ずっと昔から続いているみたいだった。
「三人は長いの?」
訊くと、ユーノが頷いた。
「同じ通りで育ったんです。三人とも十七で、昔からずっと一緒で」
「で、同じくらい無謀」
ネアが足す。
「否定できない」
ロランが言った。
「今日は肝が冷えた」
「本当にありがとうございました」
ユーノが私を見た。
「もういいよ。困ったときはお互い様だし」
そう返すと、ロランは真面目な顔になった。
「いや。借りは借りだ。返させてくれ」
短い言葉だった。
でも、重くはなかった。押しつける感じでもない。
私は頷く。
「じゃあ、覚えておく」
「それでいい」
ネアが私の服を見た。
「明日、詰所に行く前に着替えたほうがいいね」
「やっぱり?」
「やっぱり」
即答だった。
ロランが奥を指す。
「部屋は空いてる。服は……妹の古いのがあるかもしれない」
「ありがとう」
「飯食ったら寝ろ。明日、詰所へはついて行く。一人では行かせない」
私はスープの椀を両手で包んだ。
温かい。
けれど、胸の奥に残った棘は消えない。
『明日は覚悟することね』
ベルザリアが言った。
「なんで」
『聞かれたことに、馬鹿正直に答えないことね。あなたは嘘が下手だから』
「……否定できない」
『私のことも、力のことも、余計なことは言わない。いいわね』
「わかった。余計なことは言わない」
ロランたちは何も言わなかった。
私は残りのスープを飲み干した。
明日の朝、詰所へ行く。
そこで何を聞かれるのかはわからない。
でも今は、温かいものを食べて、安全に眠れる場所がある。
それだけでも、下から這い上がってきた私には十分すぎるくらいだった。
食後、ロランが地味な服を用意してくれた。
生成りのシャツと、茶色の上着。ベルザリアの派手な服とは比べものにならないくらい普通で、私はそれだけで安心した。
『みすぼらしいわね』
「目立たないって大事なんだよ」
着替えると、派手な服をまとった怪しい少女から、赤髪が目立つ少女くらいには落ち着いた。
「明日は余計なことを言わなければいいよ。足りないところは私たちが助けるから」
部屋の扉の向こうで、ネアが言った。
彼女自身、私の力のことやなぜ迷宮にいたのか、知りたいはずだった。
それでも詮索しない心遣いがやっぱり、ありがたかった。
その夜は、古鍋亭の二階で眠った。下の食堂から、皿の音と人の声がかすかに聞こえる。それを聞きながら眠れることが、こんなにありがたいなんて知らなかった。
翌朝、借りた服のまま食堂へ下りると、三人はもう待っていた。




